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「7回、いや5回…」何度も繰り返された高安の脱走劇…師匠に土下座する父の姿が15歳の少年を変えた! 35歳になった高安が明かす「義理と人情」
text by

田井弘幸Hiroyuki Tai
photograph byKanekoyama
posted2025/07/09 17:02
優勝同点・次点は9回を数える高安35歳
充実していたと思われる時期が、今にして思えば反省と後悔の連続だったという。高安は「怠慢」と表現する。最も力が出る20代半ば過ぎで、稽古量は十分に積んでいた。だが「量」だけだった。午前中は土俵でたっぷりと汗を流すと、あとは自由な時間を満喫した。酒を飲みに出かけた翌朝も、寝不足のまま稽古場で相撲を取った。それでも何とかなっていた。
「完全に調子に乗っていた。ろくな稽古もしていないのに、稽古だけしておけばいいでしょうみたいな感じ。若さゆえ、自分の体力を過信していた。このままでいけるだろうという勘違いでしょうね。結局は自分の体をコントロールできないまま崩れてしまい、番付を落としてしまった」
時の流れとともに、体にはひずみが生じた。20代最後の年だった'19年の名古屋場所前、部屋で立ち上がった瞬間にぎっくり腰を発症。1週間ほど動けなくなった。急ピッチで仕上げて場所に臨むと、勝ち越したが左肘じん帯の断裂で途中休場した。体のバランスが崩壊し、負の連鎖が始まっていた。翌場所を全休し、かど番で臨んだ九州場所も途中休場で負け越して大関陥落が決定。8日目にまたも腰痛が出て、土俵入り後に休場決断という異例かつ屈辱的な展開で看板力士の座を失ってしまった。
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もともとは、つまずいては立ち上がる土俵人生だった。一歩進んで二歩下がり、また進んだと思ったら一回休みにはまる。もどかしいすごろくのような歩みだった。
'05年春場所に初土俵を踏んでほどなく、高安は何度も鳴戸部屋を逃げ出した。いわゆる脱走だ。角界の隠語で「すかす」という。新弟子検査の時、大相撲専門誌のアンケートで将来の夢を「横綱」と答えてはいたものの、入門当初は稽古場で全く目立たない存在だった。団体生活での悩みもあって意欲が湧かず、1年足らずで千葉県松戸市の部屋から何度も茨城県土浦市の実家へ逃げた。
ある人が「7回すかした」といえば、「5回」と断言する人もいる。いずれにしても異例の多さだ。それでも力士を続けたのは「ここで辞めたら負け癖がつく。石の上にも3年だ」という父・栄二の執念で、逃げ帰るたびに部屋に連れ戻された。その車が赤信号で止まった瞬間に後部座席から降りて逃げたり、到着した部屋の前で車から降りるとそのままやっぱり逃げたり……。運動神経が良かったから走るのが速く、兄弟子たちが追いつけなかったというのも、今となってはほほ笑ましい逸話だ。
師匠に土下座する父の姿が15歳の少年を変えた
逃げては帰るを何度も繰り返した1年目の秋、父が鳴戸部屋の大部屋で土下座をした。師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)、兄弟子で幕内力士だった若の里や稀勢の里ら所属力士全員の前で手をつき、畳に額を擦りつけて懇願した。「どうか息子を部屋に置いてください」。ここが「力士・高安」の決定的な分岐点だった。「自分は今までどれだけのことをしてきたのか……」。衝撃的ともいえる光景に、15歳の少年は目が覚めた。
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