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「失礼極まりないよね」契約更改で怒り→ベイスターズ移籍直前、妻に見抜かれた本塁打王の本心…なぜ“生涯中日”から一転トレード志願したか
posted2025/07/07 11:00
2001年のプロ野球FA解禁初日、中日フロントと朝一で話し合った山崎武司。ユニフォーム姿でのFA交渉は珍しいものだった
text by

間淳Jun Aida
photograph by
Sankei Shimbun
「移籍は、ほぼ決まっていた」
もし、あの時に違う選択をしていたら――。キャリアを振り返る時、プロ野球選手には「人生を変える」という表現が過言ではないくらい重大な選択を迫られた場面が必ずある。
稀代のスラッガーにも、何度か分かれ道を目の前にして立ち止まる時期があった。本塁打王を獲得するなど中日を代表する歴代選手の1人、山崎武司は中日とは別のブルー系ユニフォームに袖を通す可能性があった。可能性というより、「移籍は、ほぼ決まっていた」という。
「誘ってもらった時は、行く気満々でしたからね。球団社長とも話をさせていただいて、1回目の交渉で『行きます』と伝えました。決定事項ではなかったものの、9割以上決まっていました」
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山崎が振り返るのは、2001年のシーズンオフだ。1996年に本塁打王を獲得してレギュラーに定着し、1999年には11年ぶりにチームがリーグ優勝を達成。チームの顔としての存在感は増していた。だが、この頃から少しずつ“違和感”が大きくなっていた。
「ドラゴンズは自分を必要としているのだろうか、別に自分が居ても居なくてもチームは変わらないのではないかと思うようになりました。何となく居心地の悪さもあって、必要とされているチームに移籍した方が、やりがいを持てるのかもしれないと感じていました」
契約更改で「失礼極まりない」と思ったワケ
2001年のシーズン中にFA権を取得すると、他球団への移籍を現実的な選択肢として考えるようになった。チームへの愛着やモチベーション低下がプレーに影響したのか、成績も振るわなかった。2001年は規定打席に到達せず、打率.238、本塁打25本に終わった。
「1996年に39本塁打でタイトルを獲ってから、その後は25本前後から本数が伸びませんでした。こうやって落ちていくのかなと自分を客観的に見ていた部分がありました。今と違って、当時は打率.250、本塁打25本くらいでは球団から“普通”と評価されました」
FA権取得の前年となる2000年のシーズンはリーグ6位となる打率.311の成績を残した。
前年のシーズン終盤に骨折した左手首の状態が万全ではなく、フルスイングを回避して右方向への安打を狙った打撃が“けがの功名”となり、高打率を残した。ただ、契約更改で球団から提示されたのは「現状維持」。この評価もFA移籍に傾く要因の1つになった。
山崎が回想する。

