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「今すぐ湯布院に逃げろ!」「は?」ダイエー佐々木誠にかかってきた深夜の電話…史上最大のトレードで常勝軍団西武へ移籍し「野球観が変わった」
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喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/07/05 11:05
西武に移籍した佐々木誠は.285、20本塁打、37盗塁で盗塁王となり優勝に貢献した
地元・博多の西日本スポーツでも「激震 大型トレード」の緊急連載が掲載され、同社にも、読者からの疑問と抗議の電話が鳴りっぱなしだったというエピソードが詳述されていた。さらに「あの2人が……」という見出しとともに「ビビっています。僕らも出されるかもしれない」という当時の主力の一人・浜名千広のコメントも紹介されている。
帰ったら家の周りがえらいことに
「朝7時に出て湯布院。それから1週間、ぼーっとしていました。記者とか、誰も来なかったですね。でも、帰った瞬間、家の周りがえらいことになっていました。まだ引っ越す前だから前の家でしたけど、記者が車の前に立ちはだかって、動こうとしないしね」
その当時は、メディアが渦中の存在を追いかけ回し、家の前で帰りを待ち、家に入ろうとするところに群がり、コメントを引き出そうとすることなど日常茶飯事。令和の時代には、プライバシーが重視され、選手や関係者の自宅前での取材や張り込みは、球団サイドからも厳禁とされている。
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しかし、当時はまだまだ自宅直撃は当たり前。選手が帰っていない、見つからないのなら、家の前で張っとけと、会社の上司から当たり前のように私も命令されたものだった。
その喧騒の中で、佐々木にも“重圧”が襲ってきた。
弱いチームから強いチームへ行くというプレッシャー
「西武はライバル、敵という感じではなかったよね。だって全然、群を抜いて向こうの方が上だったからね。弱いチームから強いチームへ行くって、すごいプレッシャーなんです。僕のせいで優勝できなかったら、どうしようとか考えますから」
Bクラスの常連だったダイエーとは違い、当時の西武は黄金期。93年はリーグ4連覇の真っ最中で、90年からの3年連続日本一も達成していた。その西武を率いる知将・森祇晶の緻密な野球に、佐々木は敵ながら、かねてから惹かれるものがあったという。
「しっくり来たんです。森さんの野球って、やっぱり初回にランナーが出たら、送りバントとか盗塁を絡めながらエンドランをしたりとかして、得点圏に走者を置いて3番、4番に回していく野球だったんです。野球として見ている方は面白くないかも分からないけど、勝つための野球。だから、最低限こうなって、こういう風に進めていくんだなと」
当初、佐々木は「2番」が想定されていたという。

