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星野仙一が強烈ビンタ「明日から二軍へ行け」フォローなしの非情宣告…「立浪和義は殴られてない。うまいもん」元中日・上原晃が語る“本当の星野監督”
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byKazuhito Yamada
posted2025/05/04 11:05
1988年に監督就任2年目で中日を優勝に導いた“闘将”星野仙一。上原晃も鉄拳制裁を受けたことがあるという
「モデルチェンジして球種を増やすことより、やっぱり直球をもっと速くしたかった。ずっと160kmを投げたい思いがあったので。高校時代から、帽子のツバの裏に160って書いてましたから。150じゃなくて、160。それがひとつの夢でした」
上原が生まれた宜野湾市には、市の中央に普天間基地がある。米軍と生活空間をともにするなかで、自然とメジャーリーグに対して親近感を抱いた。また沖縄水産の栽弘義監督も大のメジャー通で、さまざまな文献を所持していた。それもあって、上原は高校時代からメジャー関連の書籍を読み漁っていたという。
1964年に村上雅則がメジャーデビューして以降、日本人メジャーリーガーがひとりも誕生していないなかで、上原は高校生でありながらすでに遠くアメリカのマウンドに立つ自分を想像していた。95年に野茂英雄がトルネード旋風を巻き起こす10年前のことだ。160kmという理想を追求し、細かいことは気にしないスケールの大きい野球をやりたかった。しかし実際は、プロ野球の壁にもがき苦しんだ。スピードにこだわってしまったがゆえに、小さな綻びを修正することができなかった。
星野仙一に「一度も殴られなかった」ふたりの若手とは?
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先に記したように、明治大学に進学予定だった上原を強行指名したのは、中日監督就任1年目を2位で終えた星野仙一だった。初対面の星野は終始ニコニコしていて、激怒するイメージなど微塵も感じられなかったという。だが、いざ入団してみると、激しやすい“闘将”の一挙手一投足に慄くことになる。
「星野さんもまだ40ぐらいで若かったし、怖かったですよ。喜怒哀楽がすごく激しい人でした。栽先生もそうでしたけど、厳しい人でした。怒られながらも使ってもらったという思いはあります。でも、やっぱり結果が出ないと怒られますね。1年目はあまり怒られた記憶がないですから」
厳しさを前面に押し出す野球をベースとし、鉄拳制裁が普通に許された時代。星野は選手たちを殴りまくった。チームが弛んでいると思ったときはもちろん、結果が出なければ平気で手や足を出していた。
「タツ(立浪和義)は殴られてない。うまいもん」と上原は笑いながら言う。若手で一度も殴られなかったのは立浪と近藤真一で、対照的に「一番ボコボコにされた」のはキャッチャーの中村武志だった。

