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「今日も生きててよかった…」という猛練習の阿波野秀幸と「けっこう自由」西崎幸広…“信じられない”学生時代の出会いから「伝説の新人王争い」へ
text by

元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byTakahiro Kohara
posted2025/04/29 17:02

大学野球でも最も厳しいとも言われる亜細亜大でプロをめざした阿波野秀幸が大学日本代表で出会った西崎幸広に受けた衝撃とは…
一日が終わり「生きててよかった……」と思う毎日
「入学したばかりの頃は一日を乗り越えるので必死。寝る時に『生きててよかった……』と思うほど厳しかったですね。1年生の時の僕は体力がなかったので敗戦処理での登板が多くて、2年生になってから活躍できるようになりました」
阿波野は主戦投手として1984年春季リーグ戦の優勝に貢献。その夏に行われた日米大学野球の日本代表に選ばれている。
「いろいろな変化球を覚えて、少しずつ自分の投球スタイルがわかってきた時期ですね。その頃、進路について監督に聞かれました。当然、『プロでやりたいです』と言わなければいけないという空気を感じました。そう口にした瞬間から、プロに行くために練習を課されることになりました」
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実力的にはすでに大学のトップレベルにあったが、プロで通用するほどの体力も技術も備わっていなかった。プロ宣言後、ランニングのメニューが増え、投げ込みも多くなった。
阪神の抑えになっていた伝説の大先輩を目標に
「その頃、亜細亜大学出身の山本和行さんという左投げの大先輩が阪神タイガースの抑えとして活躍されていました。年齢も離れていますし、お会いしたこともなかったんですけど、『山本は大学の時にこんな練習をやった』とか『山本はこういうピッチングをしていた』と指導者に聞かされまして。大先輩である山本さんを目標に、練習に打ち込む日々を送りました」
1985年、阪神は21年ぶりのリーグ優勝を飾り、初めて日本一になった。阿波野は東都リーグで順調に勝ち星を積み上げていった(4年間で通算32勝)。
「4年生になった頃に、プロで戦っていくためには球種が足りないんじゃないかと考えるようになりました。亜細亜大学の野球部には『一軍で活躍できないのならプロに行くべきじゃない』という方針がありましたから」
そんな時に出会ったのが愛知工業大学のエース・西崎幸広だった。