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ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
「背筋が凍った…松山英樹やべえな」天才ゴルファーが“俺は一番になれない”と悟った衝撃の18ホール「たぶん僕は彼らほどゴルフが好きじゃなかった」
text by

桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byYoichi Katsuragawa
posted2025/03/11 11:01

学生時代はプレーヤーとしても活躍した黒宮幹仁さん。2022年から松山英樹のスイングコーチを務めている
「全然、集中できないんです。緊張もしない、パットのラインもまったく見えない。平衡感覚もなくなって、傾斜が全て平らに感じる。14番ホールの茶店でチョコレートを食べた覚えはあるんですけど……。たぶん、全部のエネルギーを出し切っちゃったんです」
世代最強の敵を前にして、最後の踏ん張りがきかないどころか、ガス欠気味のまま終戦。松山の6打差大勝の陰には、後続選手の深い悲哀があった。
黒宮は当時、ホールアウト後のインタビューで「アマチュアの中に、プロがひとり交ざっていた。“プロアマ”のアマチュアの部では優勝です」とコメントしている。
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逆転できなかった結果以上に悔しかったことがある。
「自分は(松山に)相手をしてもらっていなかった。ゴルファーは思い描く弾道のボールを打てるようになりたいと思って練習をする。一回打てたら、何度も打てるように、操れるようになりたいと思う。彼は試合中もそんな感じで、日本学生の大会をプレーしているのではなく、まるで『マスターズだったらどうだろうか』と頭に浮かべながらプレーしているような感じだった」
その言葉は何割かが事実だった。実際、松山は近い将来のプロ転向を見据えて、同大会で毎日違うメーカーのボールをテストしていた。それぞれの性能の違いを感じ、飛距離を合わせるのに苦労しながら、誰も寄せ付けなかった。
20代半ばでキャリアに見切り
「俺は一番になれない」
黒宮はその後、改めてプロを目指して努力を重ねたが、あの日の18ホールの衝撃はずっと頭に残り続けた。4年生の冬、日本ツアーの予選会通過に失敗した帰りの車でも「いつかツアープロになって、本当に稼げるようになるのか」と自分に問うた。ゴルフ場、アカデミーに所属して腕を磨いたが、いつまでも親のすねをかじってはいられない。
転機は、故障もあって20代半ばで選手としてのキャリアに見切りをつけた頃に訪れる。高校時代にお世話になった福井工大の理事長に請われ、大学生だけでなく附属中高のゴルフ部員を指導する立場になったのが、コーチとしての第一歩だった。
その後はツアープロをコーチングするため、弾道測定やスイング、クラブ解析といった専門知識を蓄えた。金策のため融資してくれる銀行にも通った。愛車だったトヨタ・プリウスにあらゆる機材を詰め込み、レギュラーツアー、下部ツアーをいとわず全国の試合会場へ。評判は次第に高まり、コロナ禍の前後には今や男子ツアーで活躍する岩崎亜久竜をはじめ、東京五輪・銀メダリストの稲見萌寧、米女子ツアーで活躍する畑岡奈紗といったトッププレーヤーが師事するようになった。
そして2022年の秋、黒宮は松山に乞われチームに合流する。1つ年上の目澤秀憲コーチからバトンを受け継ぐ形で、23年の夏場以降はほぼすべての試合に帯同。10年前、選手として「相手をしてもらえなかった」同世代のスターに、立場を変えて必要とされ、スイングの構築やコース攻略に向き合う毎日を過ごしている。