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ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
「ガリガリでパワーもなかった松山英樹が…」天才ゴルフ少年が挫折したライバルの急成長「中学時代は石川遼を倒すことばかり考えていた」
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桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph by提供:日本ゴルフ協会
posted2025/03/11 11:00

2012年、日本学生ゴルフ選手権で史上10人目の大会連覇を達成した松山英樹(当時大学3年)。現在コーチとして松山を支える黒宮幹仁さん(左)も2位入賞を果たしていた
1991年4月、愛知県名古屋市で生まれた黒宮はジュニア時代から全国に名の通ったゴルファーだった。競馬騎手の高徳さんを父に持ち、運動神経に恵まれ、クラブを握る前から野球やサッカー、水泳にテニスをこなすスポーツ少年だった。
9歳の時にプロゴルファーの坂田信弘氏が主宰するアカデミー「坂田塾」の名古屋校に未経験者として入塾。半年余りで、ハーフ(9ホール)で45を切るスコアを出し、小学校高学年の頃には全国大会の常連になった。

「負けないからな!」ライバルは石川遼
同じ日本一を目指した当時の好敵手と言うべき存在が、同世代の星・石川遼だった。
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「とにかく遼はスイングがキレイでした。体は小さいのに力強く振って飛ばすし、パッティングが断トツでうまかった。僕もアプローチ、パターが大好きで自信があったんですけど、『コイツはまた違う、うめえわ』と思って。スゲエやつがいるんだなあと思った覚えがあります」
2005年の全国中学選手権・春季大会で、黒宮は2年生にして日本一に輝いた。父同士が意気投合したこともあり、やり取りするようになった年賀状には石川から『今年は負けないからな!』という文言が添えられた年もあった。
ちなみにこの頃、松山は四国では名の知れた選手ではあったが、2人と肩を並べるような逸材だったとは言い難い。全国大会で一緒に回ったときの印象を黒宮は回想する。「ガリガリで、パワーもないのに、無理やりデカいスイングをしていた。球も全然、飛ばなかったんですよね」。インパクトはあっても、脅威になるとは微塵も感じなかった。
「だから高校に入るまでは『いかにして石川遼を倒すか』と考えてばかりいました」
そのライバル関係は思いもよらぬ形で断ち切られることになる。
〈後編に続く〉
