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「なんで…空振りが取れないんだ?」偏差値72“北海道No.1進学校”出身ドラ1投手が受けた“プロの衝撃” 1年上の田中将大は…「全然、レベルが違った」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph bySankei Shimbun
posted2025/01/12 11:01
2007年に北海道No.1進学校である札幌南高からドラ1で楽天に入団した寺田龍平。プロの世界でぶつかった「壁」とは何だったのか
3年目。二軍のピッチングコーチだった高村祐からサイドスローへの転向を促された。課題である制球力が改善していなかったためではあったが、「やらないと今年で終わるな」と感じた寺田に「拒否する」という選択肢はなかった。
「僕の真っ直ぐは少し動くんで、それを生かすための投げ方にしたっていうのもあったんですけど、よくわからない状態でやっていたのかもしれませんね」
最速145キロだった右腕の球速は、120キロ台にまで落ちていた。
3年目に右肩をケガ…戦力外の決定打に
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3年目になると高卒4巡目の同期入団である菊池保則が一軍デビューを果たすなど、自分と同じ立ち位置だと思っていた選手にどんどん追い抜かれていく。「ドラ1なのに」という負い目を払拭するために、悪循環の練習に没入することしかできなかった寺田は右肩を痛めてしまった。それは軽い物でも右腕で持ち上げられないほどで、3年目のシーズン終盤に関節唇のクリーニング手術をした。
事実上、これが寺田のキャリアを終焉させる決定打となってしまった。
戦列に復帰できたのは4年目の2011年夏で、実戦登板を果たしても到底、納得のいくパフォーマンスではなかった。そのことを痛感した寺田が明確に戦力外を意識したのは、シーズンオフに開催される教育リーグのフェニックスリーグに呼ばれなかったことだ。
「もしかしたら、とは思いましたよね。そうしたら次の日くらいに連絡があって」
球団から「わかっていると思うけど、明日、球団事務所に来てください」と電話があった。「わかっていると思うけど」といった匂わせを訝しがりながらも従う。戦力外通告だった。
寺田はすぐに引退を決めた。
「練習は誰よりもやってきたと思うので、トライアウトを受けて他の球団に拾ってもらったとしても結果は一緒かな、と感じたんで。『これ以上、成長することはないな』って、やり切った感覚にはなりました」
10月9日。
戦力外を受けた寺田は、時間をおかずファンに向けてツイッター(X)に投稿した。
<今日で野球やめます!>
<次回へつづく>