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ぶら野球BACK NUMBER
「落合博満42歳、巨人退団ヤクルト入り」報道が過熱、野村克也監督「もう落合はヤクルトの一員」発言まで…なぜ“ヤクルト落合”は消えたのか?
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/12/21 11:06
落合博満と野村克也。じつは1996年オフ、巨人を退団した落合はヤクルト入団が確実視されていた(写真は1998年10月撮影)
策士・野村監督は、すかさず「うちに来るのが一番だ。すべてが丸く収まる」と大々的にラブコール。深夜、落合の自宅にも電話を入れた。
「ワシの時と、状況がダブって見えてしょうがないんや。功労者をこんな形で辞めさせていいんかい……」(週刊ベースボール1996年12月23日号)
振り返れば、野村も落合と同じ42歳の時、私生活の問題でプレーイングマネージャーを務めていた南海ホークスを追われた過去があった。40代でロッテ、西武と流浪の現役生活を送り、最後は盛大な引退試合もないまま寂しくユニフォームを脱いだ。南海で野球人生を完全燃焼することは叶わず、「その後の野球人生は惨めやった」と自身も振り返る現役晩年だった。野村は、巨人を追われた落合の生き様に、あの頃の自分を見たのである。
“巨人リストラの犠牲者”
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上田利治監督が率いる日本ハムも、落合争奪戦に参戦することを明言していたが、パ・リーグの広い球場や、球威で攻める投手が多い力勝負のスタイルから圧倒的に不利と見られ、ほぼヤクルト一択という雰囲気すら漂っていた。世間では「球団の非情なリストラの犠牲者」とオレ流に同情する声も多く、一般紙の「東京新聞」にも「落合“切り捨て”サラリーマンあすはわが身!?」という記事が掲載された。
「有能な部長を自認していたのに、外部からスカウトした年下の男に部長ポストを奪われ、部付部長に追いやられたような感じではないか。そんなポストに甘んじるのはプライドが許さないということだろう」(東京新聞1996年11月30日)
その去就への注目度は高く、タレントのともさかりえが表紙を飾る「週刊プレイボーイ」でも、「ぐわんばれ!落合!!高まる期待と応援、目指すは史上最強の『巨人の天敵』だ!」という特集記事が組まれるほどだった。この想定外の盛り上がりに長嶋監督は「ヤクルトに入団すると怖い打者? もちろん、そりゃそうですよ」と警戒したが、偶然にも97年開幕カードは、東京ドームで巨人とヤクルトの三連戦が組まれていた。43歳のリストラスラッガーが、同じセ・リーグの球団で、ライバルの野村ヤクルトに移籍して、自分を追い出した長嶋巨人にリベンジする――。その分かりやすいオレ流の華麗なる逆襲ストーリーに、マスコミの報道はさらに過熱する。
「もう落合はヤクルトの一員」発言
スポーツ各紙は、「野村『落合に花道』」「落合ヤクルト入り決定」と連日派手に報じ続ける。