熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「借金は嫌だから自己資金。100軒売ったよ」不動産業で大成功…J通算99発ブラジル人FWの“意外な引退後”「33億円移籍で挫折」の真相も語る
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2024/12/21 17:01
Jリーグで大活躍したルーカス。現在は地元の不動産業で生計を立てているそうだ
「ブラジルは広大な国で、土地が比較的安く買えるし、地域によっては多くの人口が流入していて、良い不動産が必要とされる。投資として有望だと考えたし、他の共同経営者の能力と人柄を信頼していたからね」
――ここは素晴らしい邸宅ですが、ひょっとしてこの家もあなたの会社が建てたのですか?
「いや、ここは違う。でも、同じような家は建てているよ」
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――これまでにどれくらいの家を建設、販売したのですか?
「ここリベイロン・プレットで30軒、クリチーバで70軒くらいかな。お陰様で、うまく行っているよ」
――あなたは生まれも育ちも、リベイロン・プレットですね。この町は、かつてセレソン(ブラジル代表)でMFとして活躍したソクラテスとライーの兄弟ら名選手を輩出しています。どのような家庭に育ったのですか?
「9人兄弟の上から5番目で、4男。父親は郊外の大きなサトウキビ畑の労働者で、同じ畑で働く100以上の家族が村を造って住んでいた。その中に、各種商店、病院、学校、フットボール場などがあった。父親がフットボールが大好きで、僕は歩けるようになるとすぐに手ほどきを受けた。彼は、少年時代、地元のアマチュアチームで右SBとしてプレーし、プロクラブのテストを受けて合格したそうだ。でも、祖父がサトウキビ畑の労働者で、子供を含む一家全員が畑で働かなければならなかったから、プロになる夢は断念したと聞いた」
U-20代表ではFC東京で同僚になるジャーンと
――最初に所属したチームと、プロを目指そうと思ったきっかけは?
「村の少年チーム。ポジションはCFで、ずっと年上の子供たちともプレーした。1986年、7歳のときにW杯メキシコ大会をテレビで見て、CFカレッカに憧れた。彼のような強力なストライカーになりたい、と強く思ったんだ」
――実は、僕はあの大会を現地で観戦して、準々決勝フランス戦のカレッカの先制ゴールも見たんですよ。
「へええ、そうなのか。それは素晴らしいし、羨ましいな」
――その後は、どのような道を歩んだのですか?
「10歳で地元のボタフォゴ(注:リオの古豪ボタフォゴと通称が同じだが、別のクラブ。ソクラテスやらいーっを育んだ)のU-11のテストを受けて合格した。U-11は市内に住む選手を集めただけだから弱かったのだけど、U-15ではサンパウロ州全土から選手を集めたので強くなった。サンパウロのビッグクラブのU-15と対戦しても互角に戦えるようになった」
――プロデビューは1995年9月、16歳のときですね。
「ブラジル3部の試合に出場したんだけど、緊張のあまり足が動かず、得点はおろか、シュートすら打てなかった。でも、次の試合で右からのクロスを頭で決め、初得点を記録した。96年にはプロ契約を結び、収入が大幅に増えた(チーム最多の12ゴールで2部昇格に貢献)。1997年7月にはU-20ブラジル代表に選ばれ、これでプロとしてやっていける、という手応えをつかんだ。このときのメンバーに、後にFC東京でチームメイトとなるCBジャーンがいたんだ」
――そんな縁があったんですか。若手屈指のCFとしてオファーが殺到し、1998年5月、19歳で南部の強豪アトレチコ・パラナエンセへ移籍します。
「リベイロン・プレットは1年中暑いんだけど、クリチーバは冬はかなり冷える。知っている人が誰もいなかったし、適応に苦しんだ。最初はCFの控え。でも、レギュラーが故障して使ってもらえるようになり、ポジションを手にした。1999年には6月、クラブが建設した新スタジアムのこけら落としの試合でクラブ初のゴールを決めたのが記憶に残る。そして、翌年のコパ・リベルタドーレスの出場枠を争う大会の決勝クルゼイロ戦の第1レグでハットトリックを達成した。1部で28試合12ゴール。プロとしての土台を築いた年となったんだ」
当時破格の“33億円移籍”…その真相とは
――この活躍で欧州クラブの注目を集めました。2000年前半、イタリアの名門インテルからオファーを受けます。名物会長マッシモ・モラッティが「我々はロナウド2世を手に入れる」と語り、獲得を確信したとか。しかしその後、フランスの中堅クラブであるレンヌが2100万ユーロ(約33億円)という当時破格の移籍金を提示し、入団が決まった。当時の真相は語れますか?