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「試合前に遺書を書いた」27年前、UFCで初めて勝利した日本人の“壮絶な覚悟” 売名でも賞金でもなく…高橋義生はなぜ世界に挑んだのか
posted2024/12/13 17:01
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Susumu Nagao
日本時間の12月8日、アメリカ・ネバダ州ラスベガスのT-モバイルアリーナで行われた『UFC310』で、元RIZINバンタム級王者・朝倉海がUFC初参戦でUFC世界フライ級王座に挑戦。日本人初のUFC王者誕生が期待されたが、ブラジリアン柔術黒帯の王者アレッシャンドリ・パントージャ(ブラジル/ATT所属)に2ラウンド2分5秒、リアネイキッドチョークで一本負けを喫し、快挙達成はならなかった。
日本人ファイターによるUFC王座挑戦は今回の朝倉海で通算7人目だったが、またしても世界最高峰の高い壁に跳ね返されたかたちだ。
今から31年前。UFCは1993年11月にスタートした時点から、日本の格闘家にとっては常に高い壁だった。当時はMMAという競技自体がまだ事実上存在していなかった時代。グラウンド状態での顔面パンチを含め、眼球や急所以外の攻撃がすべて許される“なんでもあり”のバーリ・トゥードと呼ばれた試合形式と、その危険な闘いで無敵の強さを誇り、ただ一人、ほぼ無傷でトーナメントに優勝した“グレイシー柔術”を操るホイス・グレイシーの存在は脅威であり、格闘技界を根本から揺るがした。
日本人格闘家がぶつかった“UFCの高い壁”
日本では、'70年代の“地上最強のカラテ”極真空手ブームやアントニオ猪木の一連の異種格闘技戦の時代から、誰が一番強いのか、どの格闘技が一番強いのかは、格闘技好きにとっての最大のロマンだった。しかし実際は異なる競技間でのルールの問題が常に横たわり、それは空想の世界でしかなかったが、UFCではそれをほぼノールールにすることであっさりと解決。しかも、ルールがなければそれは凄惨な殺し合いとなり、スポーツ競技の範疇を逸脱してしまうという常識も、護身術でもあるグレイシー柔術(ブラジリアン柔術)が覆してみせた。
流派、競技の枠を超えて誰が一番強いのかを決めるUFCという舞台がついに現れ、そこで圧倒的な強さをみせて優勝したのは、日本古来の柔術を地球の裏側ブラジルで発展させたグレイシー一族だったという壮大なロマンは、日本の格闘技ファンを瞬く間に虜にしたのである。
そんなUFCとグレイシー柔術に初めて挑んだ日本人は、総合的な実戦空手を標榜する大道塾の空手家、市原海樹だった。市原は'94年3月、コロラド州デンバーで開催された『UFC2』に出場。当時、髪の毛を引っ張ることも許されるルールだったUFCに市原は長髪を短く刈り込み決死の覚悟で乗り込んだが、結果は送り襟絞めで絞め落とされて一本負け。
それからUFCに挑む日本人はなかなか現れなかったが、市原の敗戦から2年2カ月後の'96年5月17日、元・大相撲横綱の北尾光司がミシガン州デトロイトで開催された『UFC9』に出場。圧倒的な体格差があったにもかかわらずマーク・ホールの顔面パンチで1ラウンド、わずか40秒でドクターストップ負けを喫してしまった。黎明期はUFCでは、日本人ファイターが「1勝」することすら難しいほどの高い壁だったのだ。
UFCだけでなく、日本でも『バーリ・トゥード・ジャパン』という同様のトーナメントが'94年と'95年に開催されたが、ホイスの兄ヒクソン・グレイシーが圧倒的な強さで2連覇。トーナメント戦が廃止された'96年の『バーリ・トゥード・ジャパン』では、修斗の軽量級エース的立場だった朝日昇がホイラー・グレイシーにリアネイキッドチョークで完敗。UFCとともに黒帯の柔術家も日本人ファイターにとっては高い壁であり続けた。