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「試合前に遺書を書いた」27年前、UFCで初めて勝利した日本人の“壮絶な覚悟” 売名でも賞金でもなく…高橋義生はなぜ世界に挑んだのか 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph bySusumu Nagao

posted2024/12/13 17:01

「試合前に遺書を書いた」27年前、UFCで初めて勝利した日本人の“壮絶な覚悟” 売名でも賞金でもなく…高橋義生はなぜ世界に挑んだのか<Number Web> photograph by Susumu Nagao

1997年2月7日の「UFC12」でヴァリッジ・イズマイウを下し、日本人として初めて勝利を収めた高橋義生

UFCで初めて勝利した日本人

 そんな時代に高い壁を初めてぶち破り、日本人で初めてUFCで勝利。しかも、グレイシー柔術(ブラジリアン柔術)黒帯から勝利をあげたのが、当時パンクラス所属のプロレスラーで格闘家の高橋義生だった。

 高橋といえば、当時パンクラスの二枚看板だった船木誠勝、鈴木みのるを脇で支え、あえて団体の“番人”的なポジションに座り、他流試合要員として睨みを利かせていた実力者。パンクラスはUFCより2カ月早い'93年9月に旗揚げしており、高橋は“競合他社”でもあるUFCを早くから意識していた。

 高橋は以前インタビューした際、こう語っている。

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「UFCは、俺たちの仲間である(ケン・)シャムロックが第1回大会に出て『負けた』っていうニュースを聞いてびっくりしたんですよ。そこから意識し始めて、自分も出たいって思いましたね。

 ただ、出たいと思った理由は、僕がグレイシーに勝って自分の名前を上げたいとか、強さを証明したいとか、そういうことじゃないんです。一番の目的は、自分の心を試したかったんですよ。パンクラスになってから、オランダやアメリカを始めとして、いろんな外国人と闘うようになったじゃないですか。その時、銃社会に生きてる彼らと、比較的安全な日本で育った僕らとでは、リングでの心構えからして違うんじゃないかと思ったんです。

 普段のパンクラスの試合でも、僕らはすごい覚悟を決めてリングに上がってるのに、拳銃やナイフが出てくるようなケンカを普段から経験してる向こうからしたら、リングなんか素手同士だから楽だよ、ぐらいに思ってるんじゃないかなって。でも、僕が夜の街でナイフ持って喧嘩するわけにはいかない。だったら、ナイフや拳銃がないなかで一番極限に危険なのはアルティメット(UFC)であり、自分が乗り越えなきゃいけない壁なんじゃないかと思って、出場を志願したんです」

「試合前に遺書は書きました」高橋の覚悟

 そして高橋は、'97年2月にアラバマ州ドーサンで行われた『UFC12』への出場が決定。対戦相手は、カーウソン・グレイシー柔術四天王の一人だったヴァリッジ・イズマイウだった。当時は、UFCで勝利した日本人も、黒帯のグレイシー柔術家に勝利した日本人もいなかった時代。下馬評では高橋が圧倒的に不利と目されていた。

「100人が100人、絶対に僕が負けるって思ってたんじゃないですか? UFCでは市原海樹が負けて、北尾(光司)も負けて、空手と大相撲という日本の国技が二つとも負けて、“日本最弱”って言われてたじゃないですか。そこに僕が出ていっても、『パンクラスで船木、鈴木の下にいるやつでしょ?』みたいな感じだったと思うんですよ。だから『負ける』って思われても当然だし、べつに悔しくもなかったし。おかげで日本を背負ってるプレッシャーもなかったので、パンクラスの三番手ぐらいに見られてて、ラッキーぐらいの感じでした。

 ただ、試合前に遺書は書きました。負けたらパンクラスに泥を塗ることになるし、日本にも泥を塗ることになるから、あとに続く人が出てこなくなる可能性もある。だから、ホントに覚悟はしましたね。

 現地入りしてからナイアガラの滝を見に行ったんですけど、もし負けたらここに飛び込もうって。冬だったからナイアガラの滝が凍ってて、水面が氷の剣山みたいになってたんですよ。『ここで飛び降りて、もし下まで意識があったら突き刺さって死ぬんだよな。痛えんだろうな』とか思いながら、試合会場がある町に向かったんです」

【次ページ】 目的は、売名でも賞金でもなく…

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