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ぶら野球BACK NUMBER
「お前、2回目だろっ!」巨人・落合博満40歳が死球に激怒、ヘルメットを叩きつけた日…原辰徳36歳は落合をライバル視「あの人より、先には辞めない」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/11/23 11:02
1994年8月10日。斎藤隆(横浜)のデッドボールに怒り、ヘルメットを叩きつける落合博満40歳
1953年生まれの落合だけじゃない。1958年生まれの原もまた「ナガシマに死にたいくらいに憧れた少年」だったのだ。夢にまで見た巨人四番の座を手に入れたと思ったら、FA移籍してきた落合にあっさり奪われた。優等生発言ばかりでつまらないと揶揄され続けた背番号8が、「優勝が決まる日に、四番に座っていられたらいい」と間接的にオレ流に宣戦布告だ。「落合が入ることで、いろいろな効果があるでしょうが、原が最も刺激を受けるでしょう」という長嶋監督の狙い通り、温厚な若大将が珍しく、「あの人より先には、辞めないよ」と対抗心を露わにした。
激怒する落合「2度目だろ!」
京都で観測史上最高の39・8度を記録するなど、日本列島が記録的な猛暑に見舞われた1994年夏、8月に入っても、落合のバットから快音は聞かれなかった。すると、5日の中日戦(ナゴヤ)で試合前の打撃練習中、長嶋監督が背番号60に直接語りかけ、「オチ、構えたとき、両肩が張りすぎてるよ。上体の力を抜いてスエーしないように。引き付ける感じで」と移籍後初めてアドバイスを送る。10日の横浜戦(東京ドーム)で斎藤隆の投球を左の肩口に受けると、6月24日にも同投手から腹部に死球を当てられているオレ流が、珍しく血相を変えてヘルメットをグラウンドに叩きつけ、鬼の形相でマウンド上に向かって「2度目じゃないか!」と一喝。本人は「演技という面もあった」とのちに自著で明かしたが、ぶつけられた肩は腫れ上がった。チームは同カードで後半戦3度目の3連敗を喫し、気がつけば2位中日と5ゲーム差まで詰められていた。
しかし、こんなときこそ仕事をしてみせるのが、落合の落合たる所以だった。各チームの内角攻めは徹底していたが、14日の阪神戦、両チーム無得点で迎えた4回裏一死、サウスポー仲田幸司の内角速球を左翼席中段まで運ぶ先制の11号ソロアーチ。25試合105打席ぶりの一発にも、「高さ? 分からん。(球が)見えてないよ。見えてくれば、もっと飛んでたさ」と相変わらずそっけないコメントを残すが、1対0のスコアでの決勝アーチ通算6本目は、プロ野球新記録とここぞの勝負強さは健在だった。
信子夫人「担架で運ばれたっていいじゃない」
チームは再び息を吹き返すも、16日の中日戦で落合は郭源治から手首に死球を当てられ、翌17日はシーズン初の欠場。代役として「四番一塁」を任されたのは、原である。それでも、背番号60は1日休んだだけで18日の同カードにはスタメン復帰。オレ流が愚直にグラウンドに立ち続けた裏には、信子夫人の叱咤激励があった。