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42歳で死去…いったいなぜ? マイク・ベルナルド「日本人に愛された剛腕の悲劇」カメラマンが見た“忘れられない光景”「暗闇の中で聖書を…」 

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長尾迪

長尾迪Susumu Nagao

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photograph bySusumu Nagao

posted2024/07/28 11:01

42歳で死去…いったいなぜ? マイク・ベルナルド「日本人に愛された剛腕の悲劇」カメラマンが見た“忘れられない光景”「暗闇の中で聖書を…」<Number Web> photograph by Susumu Nagao

2012年に42歳の若さでこの世を去ったマイク・ベルナルド。日本のファンに愛された“ベルちゃん”の知られざる一面とは

白人のベルナルドが嫌った“母国のアパルトヘイト”

 ベルナルドのことを理解してもらうために、南アフリカの特殊事情を少しだけ書かせてもらいたい。アフリカ大陸のサハラ以南は、主に有色人種によって国家が成立している。しかし、南アフリカは長く白人が国家を支配し、20世紀半ばには白人と非白人を区別するアパルトヘイト(人種隔離政策)が法律で定められた。反アパルトヘイト運動の指導者だったマンデラ氏は、27年間も投獄されていた。彼が釈放された後、1994年に南アフリカ初の全人種参加選挙が実施。マンデラ大統領の誕生とともに、この悪法は完全に撤廃されることになった。

 1969年生まれのベルナルドが育った頃はアパルトヘイトの真っ只中だった。だが、彼の昔からのトレーナーで、師匠でもあるスティーブ・カラコダ会長は有色人種だ。私が初めてベルナルドと会ったときも、彼はカラコダと親しげに話をしていた。

 ベルナルドは日本でも老若男女を問わず、選手やその関係者など、誰とでもフレンドリーに接していた。その姿を見て、理解することができた。彼は南アフリカという国で白人として生まれ育っただけで、人種差別を断固否定する生き方をしてきたのだ、と。

 そんなベルナルドにとって、母国のアパルトヘイトは受け入れがたいものだったに違いない。80年代当時、他のアフリカ諸国から孤立していた南アフリカへの入国を諦めた私に「申し訳ない」と謝罪したのは、そういった事情が関係していた。

「ワンマッチ最強」でもグランプリ優勝が遠かった理由

 1996年のグランプリでピーター・アーツをKOしたことにより、ベルナルドの知名度は一気に上がり、K-1で揺るぎない地位を確立した。だが、ワンデイトーナメントのグランプリは96年の準優勝がベストスコアで、その後は結果が残せていない。

 その理由は彼のファイトスタイルにあるのだろう。ボクシング仕込みのパンチを多用するベルナルドは、他の選手と比べると接近戦志向が強い。必然的に対戦相手はローキックなどの足技を使って、離れた距離で戦うことを選ぶ。通常は1日1試合のため、脚を攻撃されても持ちこたえられる。一方、1日最大3試合のトーナメントでは脚を集中的に攻撃されることでダメージが蓄積される。アンディ・フグに敗れた96年のグランプリ決勝はその典型だが、「ダメージを残したくない」という意識のせいで力をフルに発揮できないケースもあったはずだ。ただ、ワンマッチ限定ということであれば、彼は間違いなくK-1最強選手のひとりだった。

【次ページ】 亡き盟友との約束を果たし…K-1復帰で見せた“輝き”

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