- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
「本気で役員を目指す」つもりだった“一流企業の営業マン”が30歳で高校野球の監督になったナゼ…「高嶋先生を超えるには、急がないとヤバいと」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by(L)Fumi Sawai、(R)JIJI PRESS
posted2024/04/18 11:00
智弁和歌山高時代は5度の甲子園出場を果たした道端俊輔。社会人での営業マン生活を経て、今年から鹿児島城西高の監督に
強打を武器に90年代後半から00年代にかけて智弁和歌山を常勝軍団に築き上げた高嶋仁氏の凄さを、教え子視点で道端はこう明かす。
「自分がこんな言い方をするのはおこがましいですけれど……高嶋先生は当たり前のことを積み重ねる天才だと思うんです。難しいことをするのではなく、基本を大事にしてきて、当たり前をとんでもなく積み重ねて結果を出された方。“当たり前”なことだから、考えを指導に置き換えやすいんです。
そんな指導を間近で見てきて、自分が教わってきた宝物を武器に勝負したいと思って。記録もそうですが、人間としても超えたいというのはあります」
とは言っても、道端はずっと“高校野球の指導者になる”という夢を温めてきたわけではない。
高校時代の目標は、プロ野球選手だった。
高いレベルを求め、智弁和歌山を卒業後は名門・早大の門をくぐった。入学直後、3年上には不動の正捕手・地引雄貴(東京ガスを昨季引退)がいた。地引が卒業後は1年上の土屋遼太(現・JFE東日本コーチ)とのレギュラー争いに勝てず、ようやく正捕手としてマスクを被れるようになったのは土屋が卒業した4年春になってから。小、中、高と下級生から公式戦に出場していた道端にとって、試合に出られない悔しさを味わったのは大学が初めてだった。
だが、スタメンマスクを被るようになると、4年春のリーグ戦を制し、その後の大学選手権でも優勝。春に続いて秋のリーグ戦も連覇すると、秋の明治神宮大会でも準優勝し、学生野球は有終の美を飾った。だが、自分の実力に限界を感じ、卒業後は明治安田生命(現・明治安田)でプレーすることを決意した。
野球に加え、社会人では営業職に適性も…
この頃から自分の将来について少しずつ考えるようになったが、同時に社業として従事していた営業職にやりがいを感じていた。
「得意先は40代、50代の顧客が多くて、いわゆる“野球一強の世代”の方々ばかりでした。初めて会う人にはすぐに顔を覚えてもらえて仕事としては有利な立場ではありました。それ以上に営業の仕事が楽しくて……。このまま、本気で役員を目指すくらい働いて、50代くらいから高校野球の指導者になってもいいと思ったんです」