- #1
- #2
甲子園の風BACK NUMBER
「本気で役員を目指す」つもりだった“一流企業の営業マン”が30歳で高校野球の監督になったナゼ…「高嶋先生を超えるには、急がないとヤバいと」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by(L)Fumi Sawai、(R)JIJI PRESS
posted2024/04/18 11:00
智弁和歌山高時代は5度の甲子園出場を果たした道端俊輔。社会人での営業マン生活を経て、今年から鹿児島城西高の監督に
たまらず道端は動いた。高校野球で勝負をかけたい熱い思いを明治安田生命の岡村憲二監督に明かし、現役引退の意志を思い切って打ち明けたのだ。当時、明治安田生命野球部では主力選手が数人現役を退くことになっており、受け入れてもらえるのか不安はあったが、岡村監督は道端の思いを汲み、受理してくれた。
ただ、大きな決断をしたとはいえ、引退後の具体的な進路はまだ決まっていなかった。安定した生活より夢を選ぶことで家族を説得するのに時間がかかったのではないか。だが、道端は結婚したばかりの妻の言葉が忘れられないという。
「自分の思いを妻に話したら、“やりたいことがあるのなら、それをやった方がいいんじゃない?”と後押ししてくれたんです。妻はやりたいことがある自分を羨ましいと言ってくれて。妻の言葉がとても大きかったです」
智弁和歌山高の先輩を頼って…大阪へ!
22年の暮れ、道端は智弁和歌山の先輩の喜多隆志監督のいる興国に向かった。
「急に会いに行ったにも関わらず、喜多さんは自分の話を聞いてくれて。そうしたら、“ウチに来て勉強するか?”という話になって。日中は教員免許取得の勉強をして、夕方からは野球の指導もしていいっていうことになって……。それが決まったのが12月10日でした。翌月の10日からは興国で指導させてもらうことになったんです」
慌ただしく大阪へ引っ越し、コーチとして道端の指導者人生はスタートした。
喜多監督は指導の合間を縫って、道端が監督として指導ができる学校がないか関係各所に話をして情報収集してくれていたという。
そんな中、鹿児島城西高校で監督を探しているという話を聞いたのは、同じく智弁和歌山の先輩でもある明豊の川崎絢平監督からだった。
「川崎さんから話を伺って学校に手紙を送ったら、(学校法人の)日章学園の事務の方から連絡をいただいたんです。その後すぐに話をしたいと言われて鹿児島まで行きました」
その頃、鹿児島城西の佐々木誠前監督が、任期満了に伴い12月で退任するという報道が出ていた。しかも当時、鹿児島城西高野球部は特異なシチュエーションに置かれていた。
部内で暴力事件が起こり、混とんとした状況にあったからだった。
<後編につづく>