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ラグビーPRESSBACK NUMBER
福岡堅樹や松島幸太朗と一緒にW杯で見たかった…ラグビー黄金世代“消えた天才”の今「エディーが惚れた才能」「先輩も驚いたブレイクダンス」
text by
大友信彦Nobuhiko Otomo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/04/02 11:00
2012年3月、エディー・ジョーンズHCに認められ、当時大学生ながら日本代表に名を連ねた竹中祥
同年6月には来日したフレンチ・バーバリアンズとの試合に出場。秩父宮ラグビー場で行われた第2戦ではバックスタンド側タッチライン沿いを相手タックルをふりほどきながら80m独走するというセンセーショナルなトライをあげた。19歳の豪快なランニングは、近い将来、日本のエースとして世界と戦うことを予感させた。
だが、竹中がサクラのエンブレムをつけて輝いたのはそれが最後だった。
福岡堅樹と約束「一緒にWTBを組めたらいいね」
2012年3月に日本代表に招集されたとき、竹中は大学選手権で足首に負った捻挫を抱えていた。このままプレーしたら悪化しかねない――そう思った一方で、新たな指揮官に就いたエディーの指導への興味もあった。筑波大の古川拓生監督(当時)も『きっと良い経験になるぞ』と背中を押してくれた。しかし、完治しないままエディーの課すハードトレーニングに打ち込んだ代償は大きかった。
大学2年のシーズンは足首の痛みに苦しみ、痛い足をかばっているうちに反対の足も痛くなり、身体のバランスが崩れヘルニアも発症した。リハビリを経て戦列に復帰したが公式戦は1試合に途中出場したのみ。筑波大のエースの座は、1浪して加わった福岡に移っていった。
それでも大学2年の終わり、2013年3月にはジュニア・ジャパンに選ばれてオーストラリアとニュージーランドで開かれたパシフィック・ラグビーカップに参加。竹中は「夢だった」という福岡と左右のWTBコンビを結成している。
「ケンキ(福岡)とは中学のときからずっと『一緒に左右のWTBを組めたらいいね』と話していました。僕がこっち(右)でボールキャリーして相手DFをかきあつめてボールを出したら、反対側でケンキが必ずトライを取ってくれる」
この時、FBには南アフリカで武者修行中の松島に代わって1学年後輩で、前年の日本代表に史上最年少の18歳7カ月でデビューしていた藤田慶和が加わっていた。エディージャパンの船出を彩った若きトライゲッターたちの夢の競演、となるはずだったが、遠征第2戦のレッズ戦で竹中は右膝の靱帯を損傷し、途中帰国を余儀なくされた。