甲子園の風BACK NUMBER
江川卓17歳を撃破“まるでマンガの名将”が実在した…「きみ、甲子園に行くよ」弱小校監督に予言ズバリ“なぜ見抜けたのか?”迫田穆成の伝説
text by
井上幸太Kota Inoue
photograph byKazuhito Yamada
posted2024/01/27 11:01
「怪物」江川卓17歳を甲子園で攻略した名将とは(写真は巨人時代)
そして、堤にとって3度目の甲子園出場となった23年夏。初勝利に止まらず、8強に食い込んだ。快進撃を見せたチームにも、迫田氏は“ある予言”をしていた。3月の練習試合でのことだ。
「硬いね~」
目の前では、おかやま山陽ナインが軽快にノックの打球をさばいている。堤は、すぐには言葉の意図が理解できなかった。真意に気づいたのは、甲子園にたどり着いてからだ。
「初戦でサードとレフトが連続エラーしたのを皮切りに、4試合でエラー10個。『ノックは中国地方で一番だけど、甲子園で同じように守れる選手たちではない。硬くなるよ』という意味だったんです」
衰え知らずの千里眼に、ただ感服した。
「きみ、絶対甲子園行くから…頑張れよ」
迫田氏は75年に広島商の監督を退任した後、93年に三原工、現在の如水館の初代監督に就任。創部5年目の97年夏に初の甲子園に導くと、春夏計8度の出場を誇る強豪に育てた。
語られる機会は少ないが、広島商の監督退任から如水館に転じるまでの間、社会人野球の監督を務めた過去がある。山口県宇部市に本社を置く五大化学の野球部「五大化学クラブ」を率い、88年の全日本クラブ選手権優勝などの結果を残した。
その時代にも、ある駆け出しの指導者を見出した。現在は南陽工を率いる山崎康浩である。
時は90年。教員となったばかりの山崎が下関中央工(現・下関工科)を率いて3年目の夏の大会直前だった。
よく晴れた夏の日。厳しい夏の暑さを和らげようと、下関球場での練習試合前のシートノックを終え、球場外の手洗い場で顔を洗っていると、背後から「こんにちは~!」と声をかけられた。迫田氏である。
「さっきのノック見とったんですよ。きみ、絶対甲子園行くから。頑張れよ」
当時の下関中央工は初戦敗退の常連。試合で負ける度、あの出来事は幻だったのではないかと、疑心暗鬼に陥った。
そんな時、決まって取り出すのは激励とともに手渡された名刺だった。「五大化学クラブ 監督 迫田穆成」と印字されている長方形の厚紙が、かろうじて現実味を持たせてくれた。
数年後、迫田氏の予言は現実に近づいていく。山崎の下関中央工は、94年を皮切りに3度、夏の山口大会の決勝に進出。そして、南陽工に異動した06年夏、念願の甲子園出場を果たした。
球場を引き揚げると、優勝報告会などの行事が立て込む。喧騒を抜け出した山崎は、誰もいない会議室に駆け込み、迫田氏に電話をかけた。出場の報告と、かつての激励への礼を述べるも、返答は簡潔だった。
「そりゃそうでしょう。遅いくらいよ」
山崎が甲子園に行くのは当然のこと。迫田氏の素っ気なさは最大の賛辞だった。