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箱根駅伝ですべてを出し尽くし…「消えた天才」と呼ばれた“青学大の最強ランナー”出岐雄大の苦悩「陸上以外の道がなくなっていった」 

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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photograph byMiki Fukano

posted2024/01/06 11:01

箱根駅伝ですべてを出し尽くし…「消えた天才」と呼ばれた“青学大の最強ランナー”出岐雄大の苦悩「陸上以外の道がなくなっていった」<Number Web> photograph by Miki Fukano

2012年、青学大3年時の出岐雄大さん。箱根駅伝で2区区間賞を獲得し、びわ湖毎日マラソンでも学生歴代3位(当時)の好タイムをマークした

進路選択時の葛藤「それ以外の道がなくなっていった」

 そう考えると、あのマラソンは、出岐さんにとってどんな意味を持っていたのだろう。

 箱根駅伝の好走から2カ月後、大学3年の3月に自ら志願して初マラソンに挑んだ。びわ湖毎日マラソンで2時間10分02秒をマーク。これは当時の学生歴代3位に相当する好タイムだった。マラソン適性を示したことで、周囲の期待はさらに高まっていったが、出岐さんはこの後、「大学4年間で初めて」という足の不調に悩まされることとなる。

 足に力が入らない状態が続き、期待に応えることができない。少し良くなると、また無理をして調子を崩す。悪循環の始まりだった。

「大学最後の1年間はずっときつかったですね。体の調子も上がってこないし、気持ち的にも乗ってこないというか……。10月の出雲駅伝ではなんとかアンカーを務めて、初優勝のゴールテープを切ることもできましたけど、最後の箱根はけっこう厳しいものになるのはわかっていました」

 4年生になれば就職活動も本格化する。駅伝だけでなく、マラソンを好走したこともあり、選手として採用したいという企業は引く手あまただった。その中で中国電力を選んだのは、やはり原監督のプッシュが大きかったからだ。

「卒業後に競技を続けるというのが当時の自分の中では予想外のことで……。ある意味、周囲の期待に応えたくて、それで決めたところはあるんです。自分の意思じゃなかった、というと人のせいにしちゃうようで嫌なんですけど、周りからも監督からも、『実業団で走ってみれば良いじゃないか』と勧められて。それ以外の道がなくなっていった感じでした」

 元々は数学教師になりたいという夢があったが、陸上に打ち込む過程で教職課程を修めることは諦めざるを得なかった。大学生とはいえ、まだまだ社会の実情を知ることは難しい。恩師の勧めに従いながらも、葛藤を抱き続けていた。

「走ることの面白さが最後までわからなくて…」

 周りから見れば、出岐さんは陸上界に現れたニュースターであり、低迷する男子マラソン界に新風を吹き込む存在に映っていたはずだ。卒業後の進路も大手実業団チームに決まって安泰に見えたことだろう。だが、実像は大きくかけ離れていたという。

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