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「ヒロオカさんと意見が合わなくなっていた」バレンタイン監督が明かす、ロッテを1年で去った真相「辞任でも解任でもなく…」
text by
ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock
photograph byNoriko Yamaguchi
posted2023/12/09 06:02
ロッテGMを務めた広岡達朗。バレンタインを招聘したGMと外国人監督の歩調が1年目の途中から、徐々にずれ始めていた
広岡さんは非凡な人だったが、日本的な物事、日本の野球だけを支持していた。アメリカ人を監督に迎えることに、自分のすべてを注ぎ込んではいなかった。私が成功することは構わなかったが、彼が整えた状況下でという条件付きだった。彼は保守派のひとりだった。私は2年契約を交わしていたが、1年目のシーズンの終盤、広岡さんと私は選手を休ませることについて意見が合わなくなっていた。暑い夏の間、オフがほとんどない状況で試合をこなす日が続いていた。途方もない暑さで、ようやくオフが来る直前に、私は「明日のオフ日は練習をしない」とチーム全員に伝えた。
広岡さんが主導してチーム全員がグラウンドに
チーム内の年長選手に意見を訊いてみると、いいのではないかと同調してくれた。数人の選手はありがたがっていた。翌日の「オフ日」、私は自転車を取りに球場へ行った。そこで広岡さんが主導してチーム全員がグラウンドにいるのを見て愕然とした。私はそこからの2時間、練習が続く中グラウンドの端、フェンス沿いを自転車で走り続け、一言も口にしなかった。選手に1日休みを与えるという私の選択は、マスコミを騒がせることとなった。私は日本文化の“侍”的な考え方に挑んでいた。大概の見方は、これが東洋と西洋の分裂の始まりだというものだった。選手に1日オフを与えるという私の残念な試みは、二度とされるべきではないという意見だった。
非難と不和がありながらも、千葉ロッテマリーンズは力強くシーズンを終えた。69勝58敗でリーグ2位となり、次の目標はあと一歩上に行くことだった。私のアメリカ的なやり方についての論争は、哲学についての様々な議論へとつながり、かなりストレスがたまるものになった。同時に、私はニューヨーク・メッツのジョー・マキルベインGMのアシスタント、カーメン(カーム)・フスコから電話を受けた。
メッツは私にコンタクトしてくるべきではなかった
「今の契約を解除できますか?」