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「甲子園で完投後、毎週スカウトさんが」「一度は社会人に行きますと」元プロ→高校野球指導者の35歳「高校生ドラ3」指名までのウラ話
 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2023/09/02 17:00

「甲子園で完投後、毎週スカウトさんが」「一度は社会人に行きますと」元プロ→高校野球指導者の35歳「高校生ドラ3」指名までのウラ話<Number Web> photograph by Kou Hiroo

プロ野球選手を経て東邦高校のコーチを務める木下達生氏に話を聞いた

 近所に中日の元エースがいて、中学で入ったチームにのちの中日のスター選手がいた。ドラゴンズブルーの色濃い少年時代だったのだ。

〈東邦高校には推薦でピッチャーで入学しました。当時すでに180cmありました。入学した時の監督は阪口慶三先生でした。厳しい先生と言われていましたが、僕はかわいがってもらいました。東邦高校では、1年生は『補助』といって、練習をせずに先輩の手伝いをしたりするんですが、僕は上級生の控え選手のはからいで、主力選手の練習中やグランド整備中も練習をさせてもらえました。

 1年生で練習試合に出て、2年では公式戦にもベンチ入りしていました。1学年上に明治大学から中日に入った岩田慎司さん(通算9勝15敗1ホールド)がおられて、2年生はほとんど投げることはなかったんですが、それでも公式戦は一応経験しました。そして3年生の春の甲子園ではベスト8に進出したんです〉

甲子園で活躍すると「毎週のようにスカウトさんが」

 2005年春の甲子園では、1回戦は育英(兵庫)を延長10回1対0で下し、2回戦は東海大相模(神奈川)を7−3で下すも準々決勝では羽黒(山形)に1対5で敗れる。木下コーチは3試合とも1人で投げ抜き、当然のようにスカウトの目に留まった。

〈3年生になると、毎週のようにスカウトさんがバックネット裏でスピードガンで僕の球速を測っていた。140km/hは出ていたと思います。当時からスライダーやカーブ、フォークも投げていましたが、9割以上が速球です。阪口先生の教えでアウトコース低めに速球を投げることを心掛けていました。そのコントロールを身につけるために1日200球ぐらい投げていました。

 小さいころから星野仙一監督が大好きで、中日ファンでした。そんな甘い話ではないとは思っていましたが、中日に行きたかったんです〉

ファイターズで頑張ってほしいとの熱い言葉が

 2005年のドラフト会議。高校生では大阪桐蔭の辻内崇伸、平田良介が話題となったが、木下コーチは高校生ドラフト3巡目で日本ハムから指名された。木下は当時について、このように回想する。

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