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連投の疲労、仲間との不協和音…江川卓“最後の甲子園”で何が起きていたのか? 呪縛から解放されたラストボールが「高校野球で最高の1球だった」

posted2023/08/22 17:02

 
連投の疲労、仲間との不協和音…江川卓“最後の甲子園”で何が起きていたのか? 呪縛から解放されたラストボールが「高校野球で最高の1球だった」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1973年、夏の甲子園で力投する江川卓。連投による疲労や得点力不足もあり、作新学院は2回戦で銚子商に敗れた

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安藤嘉浩

安藤嘉浩Yoshihiro Ando

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1973年、作新学院のエースとして日本中を沸かせた江川卓。半世紀が過ぎた現在も「高校野球史上最高の投手」として語り継がれる「怪物」は、なぜ甲子園の優勝旗を手にすることができなかったのか。対戦相手やチームメートの証言から、“フィーバー”の渦中で苦悩した「高校生・江川卓」の現実に迫った。(全2回の2回目/前編へ)

◆◆◆

作新学院の入学式で「なんで江川がいるんだ?」

 そもそも、江川卓は作新学院に入学する前から、本人の思いに反して、周囲に思わぬ影響を与えていた。

 中学2年で静岡から栃木県小山市に引っ越した江川は、小山中学野球部(軟式)のエースとして県大会で優勝する。すると、関東圏の高校で争奪戦が過熱することになった。

 とくに熱心だったのが日大三(東京)だ。父親が埼玉県立の進学校である浦和を進学先として検討したとも言われる。

 本人は「小山高校かな、と思っていた」と先輩記者の取材で打ち明けている。自身が中学1年だった1968年に夏の甲子園大会に初出場を果たしている。

「怪物」の動向は、周囲にも影響を与える。最終的に特進科のようなクラスがあった作新学院への進学を父親から勧められるのだが、「江川は小山に行くらしい」という情報が出回った。

「なんで江川がいるんだ?」

 作新学院の入学式の日、同級生の大橋康延さんは目を疑ったという。

 大橋さんは小山二中でエースとして活躍した。長身を折り曲げるようにして投げるアンダースロー。甲子園を夢見たが、一つ問題があった。「怪物」と一緒の高校になると、エースになれない。

「小さい頃から野球で誰かに負けると思ったことなんてなかったけれど、江川だけは別格だった」

 中学2年のとき、隣の小山中学に江川が転校してきた。3年夏の県大会で投げ合った。同点で迎えた最終回、江川にランニング本塁打を打たれて敗れる。軟式ボールがセンター方向へ、ピンポン球のように飛んでいったという。

 受験シーズンを迎え、「江川は小山高校だぞ」と父から聞いた。「それなら、おれは作新だ」と入学したのに……。

 捕手の小倉偉民さんは「江川がいなければ、大橋は文句なしのエース。甲子園にも行けたと思う」と語る。甲子園での登板は選抜大会2回戦だけだが、2イニングを無失点に抑えている。

 そして、3年秋のプロ野球ドラフト会議で、大橋は大洋(現DeNA)から2位指名を受けた。江川は阪急(現オリックス)の1位指名を拒否したが、自分はプロの世界に飛び込んでいる。

【次ページ】 得点力不足に悩まされた作新学院

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