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あのヒクソン・グレイシーがパーキンソン病に…“最強”に魅せられたカメラマンが明かす素顔と“会心の1枚”「朝起きるたびにこの写真を…」 

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長尾迪

長尾迪Susumu Nagao

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photograph bySusumu Nagao

posted2023/08/19 17:01

あのヒクソン・グレイシーがパーキンソン病に…“最強”に魅せられたカメラマンが明かす素顔と“会心の1枚”「朝起きるたびにこの写真を…」<Number Web> photograph by Susumu Nagao

1990年代の格闘技シーンを牽引したヒクソン・グレイシー。ヒクソン自身も「私の試合写真の中で間違いなくNo.1」と認める“会心の1枚”とは

◆1995年4月 長野での合宿

 軽井沢での山籠もりは、早朝から野山をランニング。合間には心拍数を計測していた。「組み技の練習はやらないのか」と聞くと、ヒクソンは「自然からのエネルギーをもらい、心を整えるためにここに来た」と応じた。昼食はヒクソン自らが手料理をふるまってくれた。メニューはサーモンのクリーム煮、オリーブオイルとビネガーの自家製ドレッシングのサラダ、そしてライ麦パンだった。(写真提供:中村頼永氏)

◆1997年10月11日 『PRIDE.1』

 リング上でヒクソンと対峙した高田延彦は、目に見えない圧力を感じているようだった。ヒクソンがリングの中央に陣取り、その周りを高田が回るという展開が続いた。「これ以上近づいたら危ない」。その緊張感は、カメラを向ける我々にも伝播していった。

 ヒクソンは相手の攻撃にカウンターを合わせるのが上手い。また、相手が動かない場合には自ら小さな蹴りをフェイントに使うこともある。寝技のパターンは定石通りだが、上になった場合は背中しか見えないので、次の細かい展開が分からないことも多い。そのときは会場のモニターを見ながら撮影することもある。リングサイドは他社のカメラマンやビデオなどでいっぱいで、移動はできない。

 また、この当時はまだフィルムカメラを使用していたので、一度に撮影できる枚数も限られていた。もし、いまのように無制限に撮影できるデジタルカメラだったとしたら、違った写真を撮っていたのだろうか。いや、おそらくは同じような写真しか撮らなかったと思う。私が撮りたいのは試合ではなく、ヒクソン・グレイシーという唯一無二の存在だからだ。取材のインタビュー撮影をしたときに、彼から言われたことがある。

「ナガオは他のカメラマンのようにたくさんシャッターを押さないよな。でも、いつも最高の瞬間を撮る。その切れ味は、まるでサムライソード(日本刀)のようだ」

◆1998年10月11日 『PRIDE.4』

 悠然と花道を歩き、一気にロープを飛び越えるヒクソン。その姿は神々しくもあり、勇ましくもあり、何よりも華麗だった。

 ヒクソンがジャンプしてリングインすることは分かっていたので、ポジションを移動し、息を殺してその瞬間を待った。この写真は狙って撮影した「会心の1枚」と言えるだろう。ヒクソン本人からも、こんな言葉をもらった。

「私の試合写真の中で間違いなくNo.1だ。自宅のリビングのいちばんいい場所に飾っている。朝起きるたびにこの写真を目にして『おはようグレイシー』と挨拶するのだよ(笑)」

【次ページ】 「自分を高めることは年齢に関係なくできる」

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