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猛牛のささやきBACK NUMBER
「仕事は過酷、給料はカツカツ」二軍時代は苦労も…それでも諦めなかった“日本一のブルペン捕手” 13年オリックスを支えた瓜野純嗣の野球人生
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph bySumitsugu Urino
posted2023/04/10 11:01
日本一になった翌日、13年間在籍したオリックスを離れる決断をしたブルペン捕手・瓜野純嗣(左から2番目)。長年、共に戦った平野佳寿や同じくチームを去るスタッフと写真に収まった
独立リーグや大学野球で活躍していた選手たちとポジションを争いながら、1年目は開幕マスクを勝ち取り、開幕後約3カ月は4割近い打率を残す快進撃だった。だがその後は怪我に苦しんだ。クロスプレーで足の怪我を負い、肩を壊して手術を余儀なくされた。
「捕手としての出場が難しくなり、2年目は打つ方でしか出られなかったので、とにかくめちゃくちゃバットを振りました」
そうして2年目は5番・DHで開幕スタメンをつかんだ。だがそのシーズン後、球団の消滅が決まった。
そのタイミングで、オリックスがブルペン捕手を探しているという話を耳にした。
「めちゃくちゃ迷いましたね。まだ(現役で)やりたい気持ちもあったので……」
「まだやりてーなー」と「もうやりきったかな」の間を、何度も行ったり来たり、逡巡した。
レッドワーブラーズの先輩に「悩むなら、とりあえずどんなもんか行ってこいよ」と背中を押され、「一度行ってみるか」とオリックスの秋季キャンプにブルペン捕手として参加した。その時点ではまだ現役への未練は断ち切れておらず、空き時間があれば練習するつもりで、バットを持っていった。
「でもそのキャンプが終わる頃には、もうきっちりと区切りがついていました。『この道で生きていくか』って」
二軍担当時代は苦労も「電車賃がなくて…」
だがその道で生きていくのは簡単ではなかった。最初は二軍担当。二軍のブルペン捕手は1人しかおらず、当時は打撃投手もこなし、用具担当も兼ねていた。特に遠征中は、練習前に荷物を運び、道具や水を用意して、打撃投手、ブルペン捕手の仕事をこなし、昼食は3分で済ませてすぐ試合の準備、試合が終わればすぐに片付けに追われる。
仕事は過酷で、待遇もいいとは言えなかった。
「給料も安かったので本当にカツカツで、遠征帰りに新幹線を降りた時、そこからの電車賃が100円足りなくて、平井さん(正史投手コーチ)に『すいません、100円貸してもらえませんか?』とお願いしたこともありました(苦笑)。はいつくばっていましたね。ファームからのし上がって、絶対に一軍に行って、いつかジャパンに行ってやろうと思っていました」