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「人生終わるのかなぁ」手足は真っ青、全盛期に告げられた膠原病…ダイナマイト関西が直面した「“強いパブリックイメージ”との葛藤」
text by
伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph byKiichi Matsumoto
posted2023/03/14 11:01
圧倒的な強さで人気を博す裏で、膠原病との闘いを続けてきたダイナマイト関西さん。当時の苦労を聞いた
病気のことは「尾崎、キューティー以外には言わなかった」
――初期症状が表れて、どれぐらいの時間が経ったころですか。
関西 もう30代に突入してたかな。不自由なこともあったけど、普通の生活はできてたから、特に病院に通わず、今にいたってます。
――日常生活に支障をきたすこともなく?
関西 特になかったかな。
――プロレスを続けるうえでの弊害は?
関西 手足に力が入らへんから、相手をロープに飛ばすときに、自分は手を握ってるつもりやけど握れてないから、抜けてしまうことはあったね。
――そういう現況を、選手仲間はどの程度把握していたんでしょう。
関西 知ったら、気を使うやろ? 尾崎(魔弓)、キューティー(鈴木)以外には言うてへん。気を使わせることは、絶対に嫌やから。あと、その日によって体調がぜんぜん違うから、闘ってても違和感がなかったというのもある。
何度もよぎった「辞めなあかんかなぁ」
――弱みを見せたくないというプライドもあったんでしょうか。
関西 それもある。やっぱりさ、いろんな歴史があって、ついに赤いベルトを巻くところまでいったダイナマイト関西が、病気になりました、長期入院です、「そろそろ引退か⁉」なんて言われるのは、ちょっと癪に障るやん。辞めることは何回も考えたよ、正直ね。けど、辞めるにしても自分のタイミングで、自分が納得したときやと思ってたから、まだ“その時期”ではないなぁと。
――JWPでは97年にプラム麻里子さんが亡くなって、98年にキューティーさんが引退して、残った同期が尾崎選手と関西さんだけになりました。「その時期」じゃなかったのは、2人がJWPを背負わなければいけないというプレッシャーがあったからですか。
関西 それはないな。自分と尾崎は、10代でプロレスの世界に入ってきたという人生のスタート地点から、その後の流れ、すべてをお互いが理解して、お互いが納得して、わかりきったうえでの信頼関係やから、互いがプレッシャーをかけあうことはないし、感じたこともない。何かあったら2人で乗り越えたらええやん、相談したらええやん、1人やないでと、そういうのはあったかな。
――尾崎選手がいるうちは、JWPを辞められないという気持ちはありましたか。
関西 んー。あった半面、「これ以上迷惑をかけるんやったら、辞めなあかんかなぁ」という波は、正直何回も来てた。
――迷惑というのは具体的に?