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「マフィアに入った弟をボコボコに」引退ヒョードルの“内なる激情”とは? 人類最強と呼ばれた男の逸話「ロシア軍の許せない先輩を…」
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph bySusumu Nagao
posted2023/02/12 17:03
PRIDE黄金時代、「人類最強」の名をほしいままにしていたエメリヤーエンコ・ヒョードル。格闘家らしからぬ穏やかな人柄も愛される一因だった
MMA転向は貧困から脱出する唯一の手段だった。2000年9月5日、MMAファイターとしての3戦目。海外での初ファイトとなったリングス後楽園ホール大会の高田浩也戦で初めて得た20万円程度のファイトマネーも、プロが何たるかもわからないヒョードルにとっては大金で、生まれたばかりの愛娘のために全額を持ち帰った。
なぜヒョードルはUFCと契約しなかったのか?
ちなみに同年5月21日にヒョードルは母国ロシアでデビューしているが、奇しくもその5日後、ヒクソン・グレイシーが東京ドームで船木誠勝戦を行っている。結果的にこの試合が、ヒクソンのラストファイトとなった。MMA界を引っ張るリーダーとしてのタスキは、このタイミングでヒクソンからヒョードルへと受け渡されたのだろうか。2001年4月から、ヒョードルは約10年間無敗という金字塔を打ち立てている。
わけても日本のファンにとって鮮烈なのは、PRIDE黄金時代の記憶だろう。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの3度に渡る死闘、いまだヒョードルのベストバウトに推す声が多いミルコ・クロコップとの名勝負……。PRIDEで活動した期間は2002年から2006年までのわずか5年ながら、なんと密度の濃かったことか! 少なくともその期間の世界のヘビー級はPRIDEを中心に回っており、その舞台でヒョードルは無敵を誇っていたのだから、当然といえば当然かもしれない。
一連の不祥事を経てPRIDEがUFCを運営するズッファ社に買収されると、UFCはヘビー級のトップ3だったヒョードル、ノゲイラ、ミルコの獲得に動いた。その結果、ノゲイラとミルコは契約に合意した。ヒョードルも一度は交渉の席についたが、目の前に置かれた契約書にサインすることはなかった。MMAの本戦以外にもさまざまな制約を受ける、UFCの契約上の“縛り”の強さに納得できなかったのだ。
結局、引退するまでオクタゴンに足を踏み入れることはなかった。BodogFight、Affliction、Strikeforce、M-1 Global、RIZIN、そしてBellatorと数々のプロモーションを渡り歩いたことを、ヒョードルは運命だったと捉えている。
日本でのデビュー当初は20万円だったファイトマネーも、数年間で一気に高騰した。少なくとも2007年にM-1 Globalと2年6試合の契約を結んだ時点で、1試合あたりの基本給は200万ドル(当時のレートで約2億3800万円)だったといわれている。