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堀米雄斗を金メダルに導いた“3人のオヤジ”「雄斗は一番飲み込みが悪かった」「若い奴らには物やお金じゃなくチャンスを与えるのが一番」 

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雨宮圭吾

雨宮圭吾Keigo Amemiya

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photograph byTomonori Taneda

posted2023/01/07 11:00

堀米雄斗を金メダルに導いた“3人のオヤジ”「雄斗は一番飲み込みが悪かった」「若い奴らには物やお金じゃなくチャンスを与えるのが一番」<Number Web> photograph by Tomonori Taneda

スケートボード五輪初代王者の堀米雄斗。1月7日に24歳の誕生日を迎えた

 自転車をこぐ亮太の携帯が鳴った。仕事仲間が雄斗の予選通過を知らせてくれたのだ。決勝に残れたのか、だったら1つだけ伝えておかなければ――。

「予選を見て、なんだか1人で滑っているなと感じたんです。だから『全部1人でやらずに早川くんとよく話して一緒に戦略を立てろ』とメッセージを送ったんです」

 遠ざかっていくロードバイクを追いかけねばと焦っていたから、どんな文言だったかはうろ覚えだ。予測変換で出てきた言葉を適当に繋ぎ合わせてそれらしいメッセージを書いた。意味さえ伝わればよかった。慌てて送信ボタンを押すと、亮太は「待てー!」と再びペダルを踏みこんだ。

プライドにトドメ刺した13歳の堀米雄斗

 アメリカでプロになりたい。雄斗の夢に橋をかけたのは早川だった。

 元々は早川も同じ夢を追う1人だった。初めて渡米したのは19歳の時。専門学校を卒業し、バイト代をはたいて1週間だけロサンゼルスを訪れると、そこにはスケーターにとって最高の環境があった。そして一度は就職したものの、夢断ち切れず半年後には日本でプロの道を歩き出したのだ。

 しばらくは頻繁にアメリカに渡り、チャンスを掴もうとした。しかし現地のブランドからは声がかからない。「一言でいえばスキル不足でした」。気づけば26歳。結婚もして、いつまでもあてのない夢にすがるわけにはいかなくなっていた。

「もっと若かったら少しは違ったかもしれない。あとは日本に帰るイメージでいたからよくなかった。捨て身で行けていたらもっと違っていたと思う。向こうからしたら日本から2、3カ月来てるスケーターでしかなかったんでしょうね」

 活動の場を日本に戻した早川はアパレルブランドの立ち上げやショップの経営を始めた。自らのチームに若いライダーを迎え入れながら、彼らの環境づくりにも力を注ぐようになっていった。

 そして出会ったのが雄斗だった。13歳の雄斗と初めてストリートで撮影した時、早川はその滑りに愕然としたという。自分とはまったくスケールが違っていたからだ。

「国内で曲がりなりにもプロスケーターと言っていた自分のプライドに最後のトドメを刺したのは雄斗の存在でした」

 ただし、いくら才能があろうともアメリカに渡らせるためには先立つものが必要だ。冷たいアイスの段ボールを手積みするトラック運転手の仕事で遠征費用を賄い、それでも足りない時はLAにいる古い友人に雄斗を預かってくれるように頼み込んだ。理解ある友人から遠征費の一部を工面してもらったこともあった。雄斗の成功を信じていたからそこまでできたのだった。

【次ページ】 肩書きは“コーチ”ではなく“ファン”

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