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「山田邦子って誰?」テレビから“消えた”30年間…バッシング、乳がん、M-1採点で賛否、山田邦子62歳とは何者か?「あの伝説的番組が終了した事情」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2022/12/21 11:02
今年、M-1の審査員に抜擢された山田邦子。写真は人気絶頂の1988年撮影
中学から短大まで在学した女子校・川村学園では、お楽しみ会のような機会が色々あり、そのたびに生徒が出し物に力を入れていた。山田も同級生とコンビやトリオを組んで漫才を披露し、人気を集める。短大に進むと、コンビを組んでいた子に誘われ、早稲田大学のインカレサークルである寄席演芸研究会に入った。のちにはオアシズ(大久保佳代子・光浦靖子)などプロの芸人も多数輩出してきたお笑いサークルだ。
70年代~80年代初めのこの時期、テレビには素人参加番組がたくさんあり、学生対抗の企画も多かった。寄席演芸研究会にも学生対抗チャンピオンのような人が何人もいて、テレビ出演のアルバイトが次々と舞い込んでいた。ただ、川村学園では芸能活動が禁じられており、テレビ出演がバレたら退学しなければならなかった。そのため山田も最初はライブにだけ出ていたが、やがて名前と学校名を変えてテレビに出始める。なお、相方だった子には、「お嫁さんになるから学校を退学するわけにはいかない」と断られたので、ピンでの出演となった。
20歳でデビュー「就活として認めてください」
テレビに出始めるや、それを見て出演依頼があいつぐ。初期の十八番は『魔法使いサリー』などアニメのモノマネだったが、NHKに出演するにあたり民放の番組のネタはNGと言われた。そこで新たにバスガイドのモノマネを考え、これが定番ネタとなる。
もっとも、山田のデビューはお笑い番組ではなくドラマだった。それもNHKの番組で彼女を見たTBSのプロデューサーからスカウトされてのことであった。しかし、デビューが決まった矢先、学校にOGなどから連絡がありテレビ出演していたことがバレてしまう。ピンチに立たされた山田は「これを職業にするので、就職活動として認めてください」とダメ元で頼み込んだ。すると教員たちは喜んで応援してくれたという。
こうして短大卒業後の1981年5月、ドラマ『野々村病院物語』でデビューし、宇津井健や夏目雅子など錚々たる俳優と共演する。ちなみにこのとき声をかけてくれたプロデューサーの武敬子は、のちには『男女7人夏物語』『男女7人秋物語』でお笑い界から明石家さんまや片岡鶴太郎を起用し、ヒットさせている。
ビートたけし、明石家さんまといきなりレギュラーに
山田は同時期、フジテレビのお昼の生番組『笑ってる場合ですよ!』(『笑っていいとも!』の前番組)でお笑いコンテストのコーナーにも出場していた。ところが、4日間勝ち続け、もう1日勝てば優勝というところで、その日がドラマの最初の撮影と重なってしまう。このため、武プロデューサーと『笑ってる場合ですよ!』のプロデューサーの横澤彪(たけし)が話し合い、結果、コンテストを欠場することになった。プロデューサーたちが彼女を取り合ったというあたり、当時20歳にしてすでに大物感がある。