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「山田邦子って誰?」テレビから“消えた”30年間…バッシング、乳がん、M-1採点で賛否、山田邦子62歳とは何者か?「あの伝説的番組が終了した事情」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2022/12/21 11:02
今年、M-1の審査員に抜擢された山田邦子。写真は人気絶頂の1988年撮影
デビュー後の山田の所属事務所として太田プロダクションを紹介してくれたのは横澤プロデューサーだった。彼はこの年、ビートたけしを筆頭に前年来の漫才ブームで台頭した若手の人気漫才師を結集し『オレたちひょうきん族』を特番としてスタートさせていた。同番組が10月から毎週土曜にレギュラー化されるにあたり、新たにピン芸人として明石家さんまとともに山田にも声がかかった。
『ひょうきん族』のメンバーのなかでも山田は最年少で、女性芸人で初めから自分のコーナーをもらったのも彼女だけだった。ほかの出演者は、たけししかり、さんましかり、師匠について演芸場などで下積みを経験しているが、山田はそれがないままデビューしてたちまち売れっ子となった。
素人参加番組への出演をきっかけにデビューしたお笑いタレントには、山田のほかにも関根勤や小堺一機、とんねるずなどがいる。ただ、関根と小堺はデビュー後、萩本欽一のもとで公開番組の前説など修業を積んでいるし、とんねるずもブレイク前には、赤坂コルドンブルーというレストランシアターのステージに出演し、なかなかウケず苦戦した経験を持つ。そう考えると、山田の特異さが際立つ。
下積み経験がなかった分、『ひょうきん族』という笑いの最前線で紅一点として揉まれるなかで、鍛えられていった部分が大きいのだろう。ビートたけしが1986年暮れのフライデー襲撃事件で活動を自粛したときには、同じ事務所だったので『ひょうきん族』だけでなく、彼不在の番組に出演した。《番組によっては私の代役が喜ばれていないアウェイな空気の中でやりとげなくてはならない。この時期に初めてプレッシャーを経験しました》という(『週刊現代』2021年6月12・19日号)。
30年前…なぜ“超人気番組”を自ら終わらせたのか?
『ひょうきん族』は1989年10月14日に最終回を迎えた。その4日後には同じフジテレビで山田をメインとしたバラエティ『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』がスタートする。この時期、『ひょうきん族』のメンバーのなかで勢いを増していたのは山田邦子ぐらいではなかったか、と指摘するのは、コント赤信号のラサール石井だ(『笑いの現場』角川SSC新書)。
ひょうきんメンバーのうち、たけしは映画制作に進出する一方でテレビへの意欲を失いかけ、『平成教育委員会』を始めるころまではどこか不安定だったという。さんまも女優の大竹しのぶとの結婚を機にテレビのレギュラーを2本だけに絞り、この時期、世間では限界説もささやかれた。島田紳助も報道情報番組『サンデープロジェクト』をはじめ司会業に重点を置き始めた。