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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「もう全身血だらけで、これが人間かと」病院で夫人が見た、名ヒール・上田馬之助の姿…交通事故後の決意「どっちが先に逝くかわからんけど…」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2022/11/22 17:07
上田馬之助とタイガー・ジェット・シンの悪の名タッグだった(1982年撮影)
記者からの電話「上田さんが高速で事故に遭いました」
「夜中にスポーツ新聞の記者さんから電話がかかってきて、『上田さんが高速で事故に遭いました』って言われたんですよ。でも最初は『また私を心配させようとして、記者に電話なんかさせて』って、信じなかったんです。あの人はプロレスで地方に行くと、よく旅先の飲み屋からふざけて電話をかけてきてたんですよ。『もしもし~? いま旅先で飲んでるんだけど、モテてモテて仕方がないよ~』とか。それで『そんなにモテるなら、もうそこで生活したら?』って言ったら、『違うんだ。旅で荷物がたくさん持てるんだよ』とか言って(笑)。
でも、そのときの電話は、よくよく聞くと飲み屋らしい雰囲気でもないし、『じつは運転手の方は即死で』とか『埼玉県岩槻の丸山記念総合記念病院というとこに運ばれてます』って凄く具体的に言ってきたので、『これは嘘じゃないな』と思って。そのまま寝ずに飛行機のチケット取って東京行って病院に直行したら、もう全身血だらけで、これが人間かと思うような状態だったんです」
ICUの中には事故後の傷跡もなまなましい上田の姿があったという。
「そのとき先生に呼ばれて、ハッキリ『今夜が山です。もしこれを越せても、身体は不随になります』って言われたんです。そこからはもうずっと付きっきりで、加害者の運送会社が私の部屋を取ってくれたんで、そこに寝泊まりしながら2カ月くらい岩槻にいましたかね」
「裕司さん、どっちが先に逝くかわからんけど…」
そこから壮絶で終わりのない、治療、リハビリ、介護の生活が始まるわけだが、その前にひとつ大きな問題が横たわっていた。ふたりは書類上は正式な夫婦ではなく、上田には長年別居状態で籍だけ残っていた妻がアメリカにいたのだ。
「事故後、あの人の身内は誰も病院に来なかったんですよ。私以外、看る人がいない。当時、あの人はアメリカに籍だけ残っていた奥さんと子どもがいたんですけど、事故に遭ったからって誰も来やしません。で、私は一緒にお店も興行もやってましたから、事故に遭ったからって引き下がるわけにいくもんですか。そんなことは人間として許されんですよ。それで『裕司さん(上田の本名)、どっちが先に逝くかわからんけど、生涯、私が生きてるかぎりは面倒見ていくよ』って言ったら、あの人が涙を流してたのを覚えてます」
〈後編に続く〉