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「もう全身血だらけで、これが人間かと」病院で夫人が見た、名ヒール・上田馬之助の姿…交通事故後の決意「どっちが先に逝くかわからんけど…」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by東京スポーツ新聞社

posted2022/11/22 17:07

「もう全身血だらけで、これが人間かと」病院で夫人が見た、名ヒール・上田馬之助の姿…交通事故後の決意「どっちが先に逝くかわからんけど…」<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

上田馬之助とタイガー・ジェット・シンの悪の名タッグだった(1982年撮影)

上田が恵美子夫人と出会った日

 二人が出会ったのは、1982年のこと。恵美子夫人が熊本で営んでいたスナック『亜砂呂』に上田が訪れたときだったという。

「私が熊本でスナックをやっていた頃、あるプロモーターの人が、全日本プロレスのチケットを持って『もし良かったら、何枚かお願いします』って来たんです。その頃、私もお金に不自由してることもないし、これもお付き合いのひとつだと思って、『これだけなら自分が責任を持てる』と思うだけのチケットを預かって営業に協力したんですね。で、売れ残ったら、良いお客さんにあげてもいいと思って。

 そしたら、興行が終わったあと、『チケットを気持ちよくたくさん買ってくれた人がおるけん』って、プロモーターに言われたんでしょうね。あの人がタイガー・ジェット・シンと一緒にお店に来てくれたんですよ。スナックのドアって小さいでしょう?  そこからあの大きな二人が入って来たときは、『これが本物のレスラーか』ってビックリしました。でも、宣伝ポスターのメインに大きく載ってる二人が来てくれて、うれしかったですね。それが始まりです」

真夜中、恵美子夫人にかかってきた“記者からの電話”

 それ以降、九州で試合があるたびに上田は『亜砂呂』に顔を出すようになったという。次第にふたりの仲は深まり、上田は店を手伝うようになり、二人でプロレスの地方興行も手がけるようになる。そして数年後、ふたりは公私ともにパートナーとなり、事実婚のような状態になったのだ。そんな矢先、あの事故が起きてしまった。

「あの人がまたプロレスのリングに上がり始めたとき、私はずっと『出る必要ないよ』って言ってたんですよ。お店と興行でちゃんと食べていけてたし。もう年齢的なこともあるから『やらなくていいんじゃない?』って。でも『プロレスラーをやってるからこそ自分がある』とか、そんな理屈ばっかり言って。それでIWAジャパンの巡業に出ることになったんですけど、私は凄く反対したんですね。でも『出る』ってきかなくて、『これが最後よ』『うん、最後にする』って言ってたんですけど……」

 皮肉にもそれがプロレスラー上田馬之助にとって、本当に最後のツアーとなってしまうとは、その時は誰も予想できないことだった。

 事故の第一報は真夜中、知り合いの記者からの電話だったという。

【次ページ】 記者からの電話「上田さんが高速で事故に遭いました」

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