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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「野村克也さんは“弱者の理論”なんです」「代打でもいいから阪神、来るか?と」通算306本塁打・広澤克実が感謝する“ノムさんの教えと情”
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byTakao Yamada
posted2022/11/02 17:24
1993年、ヤクルトで日本一を経験した際の広澤克実
「やっぱりジャイアンツのユニフォームを一度来てみたいというのが一番でした。小さいころから巨人ファンでしたから。
ただ、あのチームは選手がいっぱいひしめいていますから、いろいろ難しかったですね。
1年目はやや不振で、2年目の開幕前のオープン戦で、西武のすごくコントロールのいい石井丈裕と言う投手から右手に死球を食らって骨折をしました。そこまでは絶好調で、今年はいけるなと言うときに死球を受けて。利き手ですからご飯も食べられないし、歯も磨けない。変な話ですがトイレでも拭けないんですよ。全部左手でやりました。
それまでそんなに大きな怪我はしたことがなかった。初めての骨折で、ここから僕の野球人生は変わりました。打者としての感覚を失って、ちょうどそのころ清水隆行(当時/現在は崇行に改名)という若い左バッターが出てきて、彼にポジションを奪われた。
翌年には復活したんですが、1999年4月のヤクルト戦で盗塁しようとして右肩を脱臼、骨折しました。そこから全く駄目になりました。キャッチボールもできないし、バットも振れないし、成績は下がり続けて最後の年はほとんど試合にも出なくて、自信を失ってしまった」
阪神の監督になったノムさんが声をかけてくださった
失意の広澤氏に声をかけたのは、恩師の野村克也だった。
「阪神の監督に就任しておられて“お前、どうすんや”って声をかけてくださって。“監督、もうボール投げられないんですよ”と言ったら“代打でもいいから来るか?”ということになった。ただし条件があって“トレードはダメだ”と。誰か選手を交換しなければならないから、それに“金銭トレードもだめだ”と。“お前が自由契約になるのが条件だ”ということだったので、まだシーズン中に巨人の球団社長に自由契約にしてくれとお願いしました。
“なぜだ?”と言われたので、狭い野球界のことだから嘘をついても仕方がないので、本当のことを言いました。ライバル球団だから難しいかなと思ったら、“ああいいよ”ってあっさり移籍が決まりました」
冒頭でも述べたが、関西の野球ファンにとって広澤克実は「巨人からきて、巨人をやっつけて六甲おろしを歌ったおもろい選手」である。
当時、「広澤のニックネームは『とら』やそうやが、やっぱり阪神に来るような運命やったんやな」としたり顔でいうおっさんがたくさんいた。
「甲子園の巨人戦でサヨナラヒットを打った時にアナウンサーがけしかけるので、嬉しさもあって『次ここに上がったら六甲おろし歌いますよ』って言ったんです。で、甲子園の巨人戦で決勝のホームランを打ってお立ち台で歌ったんです。別に練習はしていませんでしたよ」
2003年限りで引退。41歳、19年の現役生活だった。通算1736安打306本塁打985打点、打率.275、打点王2回、ベストナインには4回選出されている。
「最後は、野村克也さんに活かしていただいた4年間でしたね。振り返ってみれば、達成感というより後悔しかないですね」
このように現役時代を振り返った広澤氏。では現在は野球に対して、どのような形で貢献をしようと実践しているのか――第2回ではその話を深掘りする。<#2につづく>