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「プロ野球史上最強の新人」権藤博のスゴすぎる伝説…東京五輪に“陸上選手”でスカウト、「権藤、権藤、雨、権藤」の悲しい意味とは? 

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太田俊明

太田俊明Toshiaki Ota

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/09/16 06:00

「プロ野球史上最強の新人」権藤博のスゴすぎる伝説…東京五輪に“陸上選手”でスカウト、「権藤、権藤、雨、権藤」の悲しい意味とは?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1961年オールスターで言葉を交わす権藤博(中日/セ・リーグ)と稲尾和久(西鉄/パ・リーグ)

 当の長嶋が2012年のインタビューで「織田幹雄さんから、『君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない』と言われたのです。(中略)後に織田先生は社会人野球で投げていた権藤博さんにも声をかけたとか。権藤さんの場合は1964年の東京オリンピックの400メートル・ハードル要員と具体的です」と語っている(セコム「おとなの安心倶楽部」の『月刊 長嶋茂雄』2012年7月2日配信記事より)。

 現代のプロ野球選手でも、オリンピックでメダルが狙えるほどのアスリートはなかなかいないだろう。それほど権藤は、突出した身体能力を持った投手だったのである。

初キャンプで中日首脳陣は…「一番沢村に近い」

 ブリヂストンタイヤから中日に入団して初のキャンプは大分県別府市だったが、このキャンプを視察した評論家の松木謙治郎(戦前の大阪タイガース初代主将、のち阪神監督など)は、当時の中日コーチ・石本秀一(大阪タイガース第2代監督など)から「こんど入ったピッチャー(権藤)、一番沢村(栄治)に近い」と言われたという(文藝春秋『Sports Graphic Number』125号)。

 松木と石本は、プロ野球創成期の大阪タイガースの主将、監督として、巨人・沢村栄治にノーヒットノーランを喫するなど煮え湯を飲まされ続けただけに、「一番沢村に近い」という言葉は、二人の中で最大の誉め言葉と言えるだろう。

 軸足で伸び上がり、左足を大きく振り上げて一度重心を後方に持っていく。そして、下半身のバネを活かしてジャンプするように一気に打者方向に移動させながら右腕をしならせる――。権藤の高めのストレートは伸びがあり、沢村同様にホップするように見えたという。キレのいい落ちるカーブと、右打者の手元に食い込むシュートも武器だった。 

  権藤は、新人の開幕直後から快調に飛ばし、終わってみれば35勝19敗、奪三振310、防御率1.70の成績で、最多勝、最多登板、最多完投、最多完封、最多投球回、最多奪三振、最優秀防御率、沢村賞、ベストナインと、勝率以外のセ・リーグの投手タイトルを総なめにした。

 2年目のシーズンは痛む肩をごまかしながら30勝17敗の成績を収めたが、その後は10勝、6勝、1勝と勝ち星を減らし、実働5年(実質2年)で投手生命を終えた。新人年の1961年が権藤のベストシーズンと言えよう。

【次ページ】 「現チャンピオン」稲尾VS「挑戦者」権藤の結果は…

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