プロ野球PRESSBACK NUMBER
「プロ野球史上最強の新人」権藤博のスゴすぎる伝説…東京五輪に“陸上選手”でスカウト、「権藤、権藤、雨、権藤」の悲しい意味とは?
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph bySankei Shimbun
posted2022/09/16 06:00
1961年オールスターで言葉を交わす権藤博(中日/セ・リーグ)と稲尾和久(西鉄/パ・リーグ)
さすがに当時も「いくらなんでも一人のエースに頼りすぎだろう」という批判の声が挙がり、権藤自身、翌年以降は肩を痛めて成績も下降。これを機にプロ野球は、先発投手のローテーション制や、中継ぎ、抑えの分業制へと徐々に舵を切っていくことになった。その意味では、権藤は球界の“最後の大エース”といえるかもしれない。
憧れの稲尾を徹底的に“真似た”アマチュア時代
さて1961年の権藤である。実はパ・リーグで突出した成績を挙げた稲尾とは深い縁がある。権藤は佐賀、稲尾は大分と同じ九州の出身で、年も稲尾がひとつ上と同世代。別府緑ヶ丘高校から西鉄入りした稲尾に対して、権藤は鳥栖高校から社会人のブリヂストンタイヤに進んだため、プロ野球選手としては稲尾より5年後輩になる。
実業団に所属した4年間、権藤は“神様、仏様、稲尾様”と地元九州の英雄になっていた稲尾に憧れ、その投球フォームを徹底的にコピーしようとした。
軸足を爪先立ちにして大きく伸びあがり、そこからしなやかに腕を振る華麗でダイナミックなフォーム。ピンチでもまったく表情を変えない堂々としたマウンドさばき。投球後、荒れたマウンドを足でならして相手投手に引き渡す紳士的な態度。そんな稲尾のマウンドの姿だけでなく、普段の歩き方まで真似たという(日刊スポーツ新聞社『もっと投げたくはないか』権藤博著)。
稲尾のような軸足を高く上げて背伸びするようなフォームで一試合を投げるには、強靭な足腰が必要とされる。幼少期から父親の漁を手伝って小さな船を漕ぎ続けたことで強い足腰を手に入れたとされる稲尾に対して、権藤には生まれ持った強靭なバネがあった。
それを表すエピソードが「東京五輪へのスカウト」である。1928年のアムステルダム五輪・三段跳びの金メダリストで、1964年の東京五輪では強化委員長を務めた織田幹雄が、同五輪でメダルを狙える陸上競技外の逸材として、当時立教大の学生だった長嶋茂雄と、ブリヂストンタイヤでプレーしていた権藤にスカウトを試みた。