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同級生からは「アイツが飛び込まなきゃ、勝ってた」秋山翔吾18歳が苦悩し続けた高校最後の1年「何で俺が主将をやっているんだろう…」
text by
高川武将Takeyuki Takagawa
photograph byNanae Suzuki
posted2022/07/17 11:04
シーズン216安打を記録した翌年の2016年、インタビューに応えた秋山。高校時代について聞くと…
「全体のことまでは考えきれなかったですね。何とかしなきゃという思いはあっても、空回りしていたというか。チームを変えるとか、劣勢の時にどうやって雰囲気を上げたらいいのか、難しかった。わかってもらいたいと思う反面、130人の大所帯で全員の意識を同じ方向に向けるのは、自分の力では無理でしたね」
主将として苦い思いがある。春の横浜戦で手首を骨折して病院に行くとき、一瞬、頭をよぎったのは「このままベンチに残るべきではないか」という思いだった。
かなり自分勝手なところがあるんですよ
「試合も勝っていたし、ベンチにいれば選手に声かけも出来る。横浜もセンバツ帰りで浮足立っている感じもあったし、もし、それで勝っていたら、最後の夏に向けてチームの雰囲気も違ったのかな、と。
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皆には凄く申し訳なかったですね。やりづらくしたと思います。もっと主将に向いている人間もいたと思うし、基本的に僕は不器用というか、人前に立つようなしっかりした人間ではないんです。正直、主将じゃなければ、自分のことさえやっていればいいのにと思うこともありました。だから中学、高校で主将をやっていた時期というのは、凄く苦しかったのかなと思いますね。でも、自分のやることだけは、ブレちゃいけないって……」
すると、やや声音をひそめつつ言った。
「かなり自分勝手なところがあるんですよ。皆には、一目置かれて、嫌がられていたんじゃないですかね」
プロ入りは亡き父から受け継いだ夢だった
そして、真剣な口調でこう続けるのだ。
「僕はとにかく、プロになりたい。そのためにスキルアップするという目標だけを立てて3年間やっていましたね」
それは亡き父から受け継いだ夢でもあった。いつからそうだったのか、記憶にないほど幼い頃から野球の英才教育を受けて来た。左打ちにさせたのも、小学生で中学の陸上部で練習させたのも父である。褒めることのない厳しい父だった。それがわずか12歳のとき癌に侵され、突然目の前からいなくなってしまう。受け入れるには相当な時間がかかったことだろう。