「ダービーを勝つと、1年間楽しめますよ」

　角居が言った。ウオッカで勝ったとき、角居も1年間たのしい思いをした。勝った人にしか味わえないものがある。それがダービーというレースなのだ。

　そう言う角居はしかし、表彰式でも複雑な表情だった。1番人気のサートゥルナーリアが4着に負けた責任も感じているし、問題をおこしてからまだ1年経っていない。

　飛野の生産馬がダービーにでるのは初めてだった。11万の大観衆で埋まった東京競馬場の雰囲気に、飛野は感激した。見ていた席からゴールは斜めになるので、勝ったかどうかわからなかったが、勝ったと知った瞬間、頭のなかが真っ白になった。

　表彰式になると、さすがの飛野も涙がこみあげてきた。父がはじめた馬の生産を引き継いで50年、多額の生命保険を自分に掛けて、借金を重ねながら大金をつぎ込んで牧場を営んできた。文字どおり「命がけ」でダービーを勝ちとったのだ。

　その夜、静内に帰ると大変なことになっていた。何十人もの人がお祝いにかけつけ、家は花や祝い酒で溢れていた。

　日高の馬がダービーに勝ったと、日高中が喜んでくれていた。

ロジャーバローズは夏に引退した

　あの日から1年が過ぎた。

　ロジャーバローズは屈腱炎を発症して凱旋門賞を断念、そのまま3歳夏に引退した。角居勝彦は「こころ残りはある」と言った。

「自分が直接見る時間が短かったこと、そして屈腱炎……。能力が高い馬でしたから」

　来年の2月で引退を決めている角居はことしが最後のダービーになるが、管理馬の出走はきびしくなった。

　角居から「1年間楽しめますよ」と言われた猪熊広次は、たしかにそうだったな、と思う。仕事関係からもファンからもたくさんのお祝いのメールや花が届いて、あらためてダービーの大きさを実感した。

　ロジャーバローズはジェイエスが営むアロースタッドで種牡馬になった。シンジケートの株をもっている猪熊は、挑戦するはずだった凱旋門賞を現地観戦した際、フランスで重賞勝ちした牝馬を購入した。繁殖セールで手に入れた馬を合わせると買った繁殖牝馬は12頭になる。

「花嫁さんを買いすぎちゃって」

　笑う猪熊の、オーナーとしてのあたらしい楽しみがはじまろうとしている。

　飛野正昭もロジャーバローズのシンジケートの株をもっている。また借金して外国から3頭の牝馬を買い、ことしは7頭ぐらい種付けしたいと言った。

「種付けは100頭超えるんじゃないかな。

　“日高のディープ”になってほしい」

　いま、日高も大変な状況だ。馬主や調教師の姿はなく、せりも中止になった。

「コロナが終わったら、こんどは牧場に来て話を聞いてくれよ、な」

　電話の向こうで、飛野は言った。