ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
アンドレ・ザ・ジャイアントから“世界で初めてギブアップを奪った男”は猪木だった…ホーガン、ハンセンら選手たちが語った“大巨人の素顔”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/05/24 11:05
1976年格闘技世界一決定戦、アントニオ猪木と対戦したアンドレ・ザ・ジャイアント
「アンドレが快適に過ごせる場所なんか、地球上にはなかった」
日本マットを離れたアンドレは、87年3月に9万人以上の観客を動員したプロレス史上空前のビッグイベント『レッスルマニア3』でハルク・ホーガンと対戦し、初のフォール負け。この一戦がきっかけで、ホーガンは世界で最も有名なレスラーにのし上がり、主催団体のWWEは現在まで続く世界最大のプロレス団体となっていく。アンドレは自らがフォール負けすることで、現代アメリカンプロレスの礎となったのだ。
ホーガンは自伝でアンドレをこう語っている。
「アンドレは偉大な男だった。彼が快適に過ごせる場所なんか、この地球上にはなかった。1日中、子供用テーブルセットに座り続けることを想像してほしい。それがアンドレの日常だった。最悪だったのは長いフライトだ。アンドレはいつも飛行機に乗る前にトイレに行く時間があるかどうかを心配していた。機内のトイレに入ることは不可能だったからだ。アンドレは24時間そんな生活を送っていたにも関わらず、常に礼儀正しい男だった」
ジャイアント馬場だけが、アンドレの孤独を理解していた
そんなアンドレの孤独と苦悩を、誰よりもわかっているレスラーがひとりだけいた。“東洋の巨人”ジャイアント馬場だ。
馬場は90年4月13日に行われた全日本、新日本、WWEの3団体の合同興行『日米レスリングサミット』(東京ドーム)で、アンドレと初タッグを結成。この試合後、馬場はすでに往年の動きができなくなっていたアンドレをWWEから引き取るかたちで全日本の契約選手とし、地方巡業でも最大限のケアをした。馬場の全日本は、アンドレが最後にたどり着いた安住の地だったのだ。
そして93年1月27日、アンドレは父の葬儀へ出席するために母国フランスに帰国中、心臓発作のためパリのホテルの部屋で死去。享年46。世界中のプロレスファンを楽しませた大巨人は、父に呼ばれるように故郷へ帰り、現代のガリバーはその長い旅を終えたのだ。
いま振り返ると、アンドレが活躍した時代のプロレス界が、夢の世界であったように思えてならない。古舘伊知郎は、プロレスを「闘いのワンダーランド(おとぎの国)」と表現したが、まさに、かつてプロレスというおとぎの国、夢の世界はアンドレという存在によって形成されていたのだろう。
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