ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
アンドレ・ザ・ジャイアントから“世界で初めてギブアップを奪った男”は猪木だった…ホーガン、ハンセンら選手たちが語った“大巨人の素顔”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/05/24 11:05
1976年格闘技世界一決定戦、アントニオ猪木と対戦したアンドレ・ザ・ジャイアント
レスラーたちが証言した「大巨人伝説」
また手のひらに乗せられていたのは、観客だけでなく、対戦相手も同様だった。アンドレは自分が認めた人間と対戦したときには、ちゃんと相手の見せ場を作り、そのステータスを上げることに一役買っていた。日本で最も成功を収めた外国人レスラーであるスタン・ハンセンは、81年9月23日に田園コロシアムでアンドレと歴史に残るド迫力の名勝負を展開し、日本でのトップレスラーの地位を確固たるものとしたが、ハンセン自身「あれだけの試合ができたのは、アンドレが自分の力を引き上げてくれたおかげだ」と語っている。
また日本のキラー・カーンがニューヨークで対戦した際、アクシデントでアンドレの脚を負傷させてしまったことがあった。当時のアメリカのレスラーは「1試合いくら」の契約。試合に出られなければ収入が得られないため、ケガをさせた人間は恨まれても仕方がない。
しかし、アンドレは病院まで謝罪に来たカーンに対し「俺が復帰したら、お互い金儲けしようぜ」と笑って許し、カーンに“アンドレの脚をヘシ折った男”の称号を与え、因縁のゴールデンカードに仕立てあげた。こうして全米のトップヒールとなったカーンは「それもすべてアンドレのハートの大きさですよ」と語っている。
アンドレから世界で初めてギブアップを奪った男
このようにアンドレは自分が認めたレスラーには“勲章”を分け与える男だった。その最たるものは、86年6月17日の猪木戦だろう。それまでアンドレは世界中で一度も3カウントフォール、ギブアップでの完璧な負けを喫したことがないという大巨人神話を築いていたが、この試合でついに、猪木の変形腕固めで初のギブアップ負けを喫したのだ。
ファンはこの快挙の本当の意味をあとになって知ることになる。じつは、アンドレは所属する米国のWWEとの契約の縛りが厳しくなり、新日本への参戦はこれが最後のシリーズだったのだ。アンドレは長年ライバル抗争を展開した猪木に「アンドレから初めてギブアップを奪った男」という勲章を惜別の置き土産として、新日本での“大巨人伝説”を自らの手で締めくくったのである。
未だ謎だらけの前田日明戦
そんなアンドレに日本で唯一“謎の試合”がある。86年4月29日に三重県津市体育館で行われた前田日明戦だ。アンドレが前田の“プロレス”に一切付き合わず、潰しにかかった「セメントマッチ」。異変を感じた前田が危険なヒザへの蹴りを連発すると、大の字に寝転がり試合を放棄した。「なぜだ!?」と問いかける前田に対し、アンドレは「イッツ・ノット・マイ・ビジネス」と答えたという。
この一戦の真相は「生意気な前田をこらしめるため、新日本の幹部がアンドレに制裁を頼んだ」など諸説あるが、いまだ明らかにされていない。しかし、この一戦によって前田は「アンドレを戦意喪失に追い込んだ男」としてその幻想が巨大化し、1988年の前田人気、UWF人気爆発の遠因にもなった。結果的にここでもアンドレは対戦相手を引き上げる役目を果たしたのだ。