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竹原慎二「お前、今日負けたら引退だからな」元佐川急便・藤岡奈穂子46歳が“北新宿の四畳半”から女子ボクシングの第一人者になるまで
text by
たかはし藍Ai Takahashi
photograph byGetty Images
posted2022/04/08 11:00
昨年7月、藤岡奈穂子はロサンゼルスでWBA女子フライ級のベルトを防衛。日本の女子選手として初めてアメリカで世界戦に勝利する快挙を成し遂げた
ハードなドライバー業とトレーニングを両立
46歳にして全盛期を迎えている藤岡だが、ここまでの歩みが順風満帆だったわけでは決してない。
中学でソフトボールを始め、高校卒業後は地元の実業団に入った。オリンピックを目指すものの、実力に限界を感じて退社する。
「何かで一番になりたい」。目標を失ったなか、地元情報誌で「ボクシング練習生募集」の文字を目にした。それまで全く興味がなかったボクシングだが、「一番になれるかもしれない」という予感があったのかもしれない。
23歳、藤岡のボクシング人生はここから始まった。練習場所は設備の整ったジムなどではなく、地元の公民館の一室で週3日ほど、決まった曜日に集まった練習生たちとトレーニングをしていた。
仕事は地元のガス会社に約5年、その後、佐川急便にも約3年勤めた。6時のロードワークに始まり、8時から17時半まで勤務。19時からボクシングの練習というハードな日々を過ごしていた。特に佐川急便は残業が多い業種だったため、効率的に仕事を終えるための段取りを工夫して整えていた。働きぶりは優秀で、佐川急便の社内で行われていたドライバーコンテスト(全国大会)では、軽自動車部門で2位を獲得している。
一方のボクシングでは、2003年のアジア選手権で3位、2004年にはアマチュア国際トーナメントで銀メダルを獲得する活躍をみせ、国内においては無敗を誇っていた。
33歳で上京、「圧迫感で死にそう」だった四畳半生活
2008年に女子ボクシングがプロ化され、当然、藤岡にも東京からスカウトの声がかかった。しかし藤岡は地元を離れることも、プロになることも考えていなかった。「絶対に世界チャンピオンになれる」と現在も所属するジムから熱烈なスカウトを受けて、「運試しのつもりで」とプロに転向を決める。その翌年に地元・宮城から33歳で上京した。
年齢のこともあり、家族や友人は悲観的だった。背中を押してくれたのは、今でも地元で後援会長をしてくれている竹中修悦さん、ただ一人だった。本来、プロテストの年齢制限は32歳までだが、アマチュアで実績があった藤岡は特例で受験することができた。
上京したものの、当時は佐川急便を退職した無職の身。部屋を借りることもできず、知人宅に身を寄せた。働いていた時の貯蓄はあったが、いつ底をつくかわからなかった。志が高かったわけでもない。
「プロとして食べていこうなんて、その時は考えてもいなかったですね。やっていける自信もなかったです」