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周囲の声「そんなマイナーな競技を担当して大丈夫か」 箱根駅伝の初代実況者・小川光明が明かす“第1回放送”までの知られざる舞台裏
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byAFLO(左)
posted2022/01/25 17:00
(左)1987年、初めてテレビ中継が行われた箱根駅伝の様子、(右)箱根初代実況者を務め、インタビューに応じた小川光明さん
周囲の声「そんなマイナーな競技を担当して大丈夫か」
そのため、声がかかった当初は、戸惑いの方が強かったと話す。
「あれは社員研修があった日の昼休みでしたね。プロデューサーの坂田(信久)君にこう言われたんです。『今度、箱根駅伝を中継することになりました。そこでぜひ全体をまとめるセンターを務めてくれませんか』と。私はまずお断りしました。それまで陸上を一生懸命やられてきたアナウンサーがいるわけだから、いきなり私が入っていくのはやはり悪いでしょう。気が引けましたね」
断る理由は他にもあった。箱根駅伝の話を知人に相談すると、「そんなマイナーな競技を担当して大丈夫か」と心配されたという。箱根駅伝は関東学生連盟が主催するアマチュアの大会で、当時はまだ知名度も低かった。長時間の放送でもし視聴率が振るわなければ、アナウンサー歴に傷が付くことにもなりかねない。さらにこんな思いもあったと打ち明ける。
「正直言うと、正月くらいはゆっくり休みたいという気持ちもあったんです。春から秋まではずっと野球があって、その後はゴルフ中継がありますからね。正月は家で酒を飲みたい時期なんです(笑)」
「人間くさいドラマに私も引き込まれていったんです」
だが、プロデューサーは諦めなかった。何度断っても、「お願いします」とやってくる。箱根駅伝がどれほど歴史ある大会で、熱いドラマを重ねてきたのか、坂田氏の説得は続いた。そんな話を聞く内に、小川さんの心境も徐々に変化していったという。
「振り返ってみれば、野球以外にもボクシングやバレー、めずらしいところでは世界ダンス選手権とかの実況もしてきたわけです。新しいスポーツとして駅伝も面白いかもしれないと。で、実際に調べてみると、初期の頃のユニークな逸話がどんどん出てくるんですよ。駅伝の道路整理をしていたおまわりさんが、自分も箱根駅伝に出たくなって、大学に入り直して2区を走ったとか。日本大学が内緒で人力車の車夫を走らせたところ、走っている途中に「エッサ、ホイサ」と独特のかけ声を出して不正がバレたとかね(笑)。人間くさいドラマに私も引き込まれていったんです」