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「箱根駅伝だけで大学入学は踏み出せない」「徳本監督でなければ絶対になかった」31歳今井隆生が明かす“挑戦を決めた”本当の理由
text by
荘司結有Yu Shoji
photograph byYuki Suenaga
posted2022/01/01 17:02
31歳で箱根路を走ることになった駿河台大学4年の今井隆生。その挑戦はなぜ始まったのか?
卒業後には、トライアスロンの草分け・飯島健二郎監督率いるトップチーム「チームケンズ」に所属。憧れの井出や第1回ユースオリンピック金メダリストの佐藤優香(トーシンパートナーズ・NTT東日本・NTT西日本・チームケンズ)ら、日本代表の選手らと練習を共にした。トライアスロンならではの過酷すぎる練習が、30歳を超えても一線で走り続ける素地となっているという。
「やばかったです、ほんと……。多い日は朝練で100mを100本泳いだ後に、自転車で60~80km走ってロングジョグしたりとか。合宿だと、一日でトライアスロン2セットやる日とかありましたよ。気が狂いそうな練習でしたけど、やっぱり自分が息長く今も走れているのは、トライアスロン時代の下積みがあったからですね」
監督からの引退勧告「新たな道を進んだほうがいい」
社会人1年目で、関東トライアスロン選手権と日本デュアスロン選手権U23で優勝、U23の世界大会にも出場するなど、トップ街道をひた走るかと思いきや、キャリアに別れを告げるのは早かった。満を持して臨んだその年の日本選手権で23位。自分の限界を知った。
「五輪に出るようなトップレベルの選手たちと毎日練習する中で、自分には届かない『才能』があるなと感じていました。自分は身長も低いし、手足のリーチも短い。努力だけでは抗えない部分がある。日本選手権の時も『これ以上ない会心の一撃を打ってもこれかい』という無力感がありましたね」
「トライアスロンには見切りをつけて、新たな道を進んだほうがいい」。飯島監督からの厳しい「引退勧告」を受け、16年の試合を最後に引退。苦楽をともにしたロードレーサーは売り払い、きっぱりとトライアスロンから手を引いた。体育教師としてのセカンドキャリアを歩み始めたのは、ちょうど同じ頃からだ。
教壇に立つ傍ら、市民ランナーとして走り続けた今井を支えていたのが、徳本監督だった。2人の出会いは14年にさかのぼる。
体育教師で悩む中、偶然出会ったのが徳本監督だった
「山形であったトライアスロンのレースで、たまたま会場に来ていた徳本さんと会ったのがまさに縁でした。ランニングに行き詰まっていることを相談したら、『うちのグラウンドで練習したら?』と言ってもらえたのがきっかけですね」
大学のグラウンドがある飯能市内での勤務が始まると、休日は徳本監督の下でコツコツと練習を続けた。18年の大田原マラソンで優勝し、パリマラソンに派遣されるなど、“市民ランナー”とは言い難い結果も叩き出してきたのも、今井のポテンシャルと徳本監督の指導の賜物だろう。
今井にとって徳本監督は、ランナーと監督という関係性だけでなく、同じ指導者としても意見を仰ぐ師でもあった。今井が駿河台へ編入学するのも、そんなグラウンドでの会話がきっかけだ。