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「自分たちのサッカー」とは何か? 「指導者ライセンス」に“代表経験”は関係あるか? 躍進ザルツブルクのアカデミーで得た知見
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph byGetty Images
posted2021/11/19 17:01
ザルツブルグのアカデミーを訪れ、CLを現地で観戦する機会に恵まれたという中野氏。平均年齢22歳のチームを率いるマティアス・ヤイスレ(33歳)にも大きな刺激を受けた
時を同じくして日本では、A級指導者ライセンスの取得に要する期間が「日本代表での出場20試合以上」で短縮されるという条件が追加された。個人的には、元選手・選手未経験・元代表といった「指導者に至るまでの肩書き」というのは、それ自体が何かの証明になるものではないが、極めて重要な参照条件だと考えている。
選手経験の有無に区別を設けず、競技生活のことは全て忘れて横一線でスタートしてください、というのはナンセンスだと思うし、そんなことが各指導者の脳内で実際に起こるとは思えない。ただしそれは参照条件であり、あるいは得意分野みたいなものであり、そこに指導者としての優劣はない。
つまり、選手未経験ならば「選手ではなかった時間に得たもの」、元選手ならば「選手だった時間に得たもの」、元代表ならば「代表選手だった時間に得たもの」が現在にどう活かされているか、という各々が持つ線の繋がりが重要であって、その肩書き単体で「現在の」ポジションを取ることは本来できない。
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指導者になるまでにどんな経路を辿ったとしても、そこに至るには一定の時間が存在している。その期間で知見を貯めなかった人が「ずるい!」と言っているだけなら僕は代表経験者の肩を持ちたいが、一方でその期間である分野に関する努力をしてきた人材が「選手じゃなかった」という理由でハードルを上げられてしまう理由が僕には見つけられない。
求められているのはそこで得たものを共有し合うこと、そして競争し合うことであり、「選手だった、そうじゃなかった」の二項対立の図式で嘆いている間に世界はどんどん前に進んでいく。元選手が優秀な監督になることもあれば、選手にならなかった人材が優秀な監督になることもある。そんなことは日々世界中で証明され続けている。
「志」に優劣はない
1つ確かなのは、日本はそのどちらも見逃さないように掬い上げないといけない段階にきているし、世界にはその流れを一周終えた国々がある。指導者は単体ではなくコーチングスタッフとしてグループで動き、グループ内ではあらゆる出自の人材が1つの人格として働いている。若ければいい、男性ならばいい、経験者の方がいい、未経験の方がいい、そんな属性は一面に過ぎないのだから、せめて指導者として評価を受ける場所に立つための資格(ライセンス)の取得に関しては、その先で健全な競争が起こるためのフェアな体制を整えてほしい。
その意味で、元代表選手「のみ」を優遇する形になった今回のライセンスに関する変更には寂しさを覚えるし、海外ライセンスとの互換性からまた1つ遠ざかったという点でも残念でならない。たとえば「内田篤人や中村憲剛の監督姿が一刻もはやく見たい」という意見には完全に同意するし、僕もその願望を持つファンの1人だけれども、同時に、それと同じくらいの熱量で「指導者として叩き上げられてきた優秀な若手監督が競争する姿をJリーグで見たい」という願望も付け加えておきたい。
今回ライセンスの取得構造に変更が加えられたことは歓迎するべきで、この火種を絶やさず、さらに大きな変更を促していくこと、つまり「そのことについて話すこと」が小さな個人にできる唯一のことかもしれない。
若い指導者が台頭することは目的ではなく競争を起こすための手段であり、競争を起こした先には日本サッカーの発展があると信じている。
「志」に優劣はない。一流選手の知見に計り知れない価値があるように、それ以外の指導者が過ごしてきた各々の時間にも計り知れない価値があるはずである。