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「選手に“最高の試合”を」1979年“悲運のエース”→甲子園審判となった野球人が勇退で語った思いとは? <帝京の名物監督も引退>
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byAFLO
posted2021/09/05 06:00
「甲子園最高の試合」とも称される1979年夏の箕島-星稜。延長18回に及ぶ死闘だった
というのも、18回表に場内アナウンスが流れた。「引き分けとなった場合は、翌日8時30分から再試合を行います……」。観客向けの告知とはいえ、選手にも聞こえる。時計の針は午後8時に近づいており、それは選手たちにとって酷なアナウンスだった。18回裏、四球で走者がたまり、星稜のピッチャーは運命の208球目を打ち返された。
「最高の試合」を経験した堅田さんだからこその思い
この悲運のエースこそが、堅田さんである。そして、今回知ってもらいたいのは堅田さんが審判員を志したきっかけである。両チーム整列を終え、サヨナラ負けにうちひしがれる堅田さんに永野元玄球審がそっと近づき、ボールを手渡した。
「球場をもう一度、見ておきなさい」
渡したのはゲームセットのボールではつらかろうと、試合中に使った別のボールだった。敗者に寄り添えたのは、永野さん自身の経験があったからかもしれない。1953年夏の甲子園に、土佐高の捕手として出場。決勝戦の9回2死、2ストライクまで勝っていた。しかし永野さんがファウルチップを捕れず、追いつかれ、延長戦で負けた。この敗戦が26年後の夏に、堅田さんへの言葉へとつながった。今と違い、当時の甲子園は途中のグラウンド整備もなくぶっ通し。3時間50分、両チーム合わせて465球をさばいた直後の気配りであった。
「若い人にチャンスを増やしたい」。勇退理由を語った堅田さんは、審判人生をこんな言葉で振り返った。
「自分は最高の試合と呼ばれる試合を経験できましたが、それぞれ自分たちの試合が『最高の試合』になるように、甲子園で試合ができてよかったなと思えるように、審判を務めてきました」