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「バルセロナは礼を欠いていた」…クーマン監督に戦力外を食らったスアレスがアトレティコで完全復活を遂げた理由とは
text by
フローラン・トルシュFlorent Torchut
photograph byL’Équipe
posted2021/06/03 17:01
20−21シーズンのスアレスは32試合に出場して21ゴール。得点ランクはメッシ、ベンゼマ、モレノに次いで、リーガ4位だった
――その頑固さはあなたの性格なのでしょうか?
スアレス もちろんそうだ。ウルグアイ人は競争意識が強く誇り高い。誰もが知っていることだ。僕だけじゃなくてすべてのウルグアイ人がそうだと思う。僕らウルグアイ人選手はサッカーに生きていることを、僕が今やろうとしていることは示している。
――幾度も国や環境を替えクラブを替えるのは、緊張感を伴うのではないですか?
スアレス 国を替えてリーグが変わったときには大きな違いがある。だからたとえばフローニンゲンからアヤックスに移籍したときは、同じ国の中でのことであまり大きな変化はなかった。リーグはもちろんそこでプレーする選手たちもプレースタイルもすでに知っていたし、言葉も問題なかった。だが異なる国でプレーするとなると、すべての環境が変わるからずっと大変だ。今回のバルサからアトレティコへの移籍は、そうではないからあまり違いを感じなかった。もちろん新しい監督のもと新しいチームメイトと新しいスタイルでプレーするわけだが、リーグそれ自体はすでによく知っていた。ここ数年リーガでプレーしていたから、余計なことに気を使うことなくピッチ上のプレーに集中できた。
僕自身がバルサからの移籍を望んだ
――とはいえ33歳でクラブを替えるのは簡単ではなかったのでは?
スアレス たしかに様々な要素が介在した。まず僕自身が移籍を望んだ。バルセロナでは多くを成し遂げたが、解雇の伝えられ方はいささか礼を欠いていたと言わざるを得なかった(ロナルド・クーマン監督が直接電話をかけて、来季は戦力外であることを伝えた)。
最大の問題は、6年間をバルセロナで過ごして、家族が街になじんでいたことだった。友だちも多くバルセロナの生活にすっかり満足していた子供たちを説得するのは大変だった。それからコロナ禍の真っただ中にマドリードに引っ越して、ここでの生活に慣れるのも大変だった。いろいろ微妙な問題も多く、子供たちは学校外の活動が何もできないし、家で大人しくしていなければならない。友だちとも会えなくなり、妻もバルセロナに残った彼女の家族と離れ離れになった。
だが、ポジティブな面も評価すべきだ。僕は自分が必要とされないところでは幸せにはなれない。家族は僕が今、とても満足していることをよくわかっている。それが一番大事だろう。
――とはいえバルセロナを離れたくはなかったのでは……。