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「オークスとダービー、どちらにしますか?」 桜花賞2着の牝馬ウオッカが“近代競馬史上初の偉業”を遂げるまで
posted2021/05/30 06:02
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph by
Satoshi Hiramatsu
1971年、谷水信夫氏が交通事故で亡くなった。谷水氏はカントリー牧場の創設者。彼の急逝により急きょ牧場を任されたのが子息の雄三氏だった。雄三氏は言う。
「当時の私は32歳。牧場には全くタッチしていなかったので、経営に事業性があるのかどうかも分からないまま引き継ぎました」
そんな手探り状態のまま、いきなりケンタッキーのセリへ行く事になった。予定した5頭を購入し終えたが「後学のため」というつもりでそのままセリを見学したときの話だ。
「シーバードの仔が上場されました。シーバードは凱旋門賞などを勝ち、ヨーロッパ最強と言われた馬だけど、当時の私はなんとなく知っているという程度でした。でも、これが最後の仔だと聞かされ、自分でも知らぬ間に手を挙げてしまいました。結果、落とせたのですが、正直、牡馬か牝馬かも分からないまま購入したんです」
シーバードの最後の仔から血を受け継いだウオッカ
こうして購入されたこの“牝”馬は、タニノシーバードと名付けられた。タニノシーバードはクリスタルパレスとの間にタニノクリスタルを産んだ。そして、そのタニノクリスタルにブライアンズタイムの種を付けて生まれたのがタニノギムレットだった。
タニノギムレットは2002年にダービーを勝ち、種牡馬となると、タニノシスターとの間に、鹿毛の牝馬を産んだ。
それがウオッカだった。
ウオッカを預かる事になったのは栗東で開業する角居勝彦調教師(当時)。当時まだ若手の調教師だった彼は言う。
「私が開業する際、谷水オーナーに挨拶をさせていただいたところ、お祝いという形でタニノシスターの仔を預けてくださいました」
以来、タニノシスター産駒は角居厩舎に入るようになり、4番目の子供がウオッカだったのだ。