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ヤクザがリングに乱入「審判を殴った」…“拳聖”ピストン堀口のボクシングマネーが裏社会の勢力図を変えた
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/04/25 11:01
戦前~戦後の大スター拳闘家・ピストン堀口(堀口恒男)
以前から組長の山口登と懇意にしていたし、のちに三代目を継承する田岡一雄は、東京の岡本邸に居候していた過去もあった。岡本不二は、嘉納健治をうまく利用して、堀口とともに独立をはたしながら、なんら旨味を与えなかったのだ。
右の事情に加えて、岡本は成長著しい新興勢力に乗っておこうという時代の空気を感じ取った。嘉納健治に興行を委ねても結局は大日拳の傘下に入るだけのことだが、大嶋組を離脱し急成長を遂げる山口組の姿に、大組織から独立した不二拳の明日を見たのだ。
その山口組が大嶋組を抜き去り、本格的に勢力を拡大する転機となったのは、1936年にピストン堀口の興行権を握ったときからとなる。大観衆が集まる拳闘興行が莫大な収益をもたらすことは、皮肉なことに嘉納健治が教えたようなものだった。
《嘉納にしてみれば、自分が試合から干されてしまった堀口を映画出演によって人気を継続させた功労者と思い込んでいるところがあり、それに関係していなかった岡本の感覚とに大きなズレがあった。そのために嘉納は、「俺の目の黒いうちは堀口を神戸に入れさせない」といったという》(同)
その後、当代一の人気浪曲師、二代目広沢虎造の芸能活動の一切を取り仕切った山口組は、三代目組長田岡一雄の時代に、美空ひばり、田端義夫らを抱え、神戸芸能社を立ち上げている。思えば、芸能ももとは嘉納の生業である。
売上の半分は“古株”嘉納健治に
一方の嘉納健治も手をこまねいていたわけではない。山口組の勢いを止めようと、御影の侠客五島一族の大野福次郎を担ぎ、山丁五島組の結成に手を貸している。一時は三宮を制圧し上海に進出するなど、海外にも拠点を持った山丁五島組からは、「ボンノ」の愛称で、後年山口組の最高幹部となる菅谷政雄や、東映プロデューサーとして多くの任侠映画を手掛けた俊藤浩滋らを輩出する。
また、両国国技館の興行権を握っていた嘉納健治は、堀口の試合をプロモートする山口組に使用許可を出すのと引き換えに、興行収益の半分をせしめている。神戸裏社会の頂点に立った山口組だが、古株の嘉納健治に対して一定の配慮は怠らなかったことになる。対する嘉納も勢いづく山口組と対立するより、うまく付き合った方が得策だと考えた。「嘉納」の名前で組を興さなかったのは、この辺の事情もあったのかもしれない。
とにもかくにも、これによってピストン堀口と山口組は一蓮托生の切っても切り離せない間柄となった。それがピストン堀口の快進撃を支えた側面は否定できない。一方の山口組も「広沢虎造とピストン堀口」という二枚看板を得て莫大な財を得た。それが「最大の指定暴力団の原資となった」という見方はあながち間違ってはいまい。
山口組ヤクザがリングに乱入「こんな判定あるかい」
そんな両者の関係はピストン堀口の現役生活に、いささか暗い影を落とすことになるのである。