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元日本代表から“30歳で箱根駅伝”に 渡邊和也が東国大で過ごした波瀾の4年間「選手として終わりなのかな」 

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和田悟志

和田悟志Satoshi Wada

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posted2021/04/06 11:01

元日本代表から“30歳で箱根駅伝”に 渡邊和也が東国大で過ごした波瀾の4年間「選手として終わりなのかな」<Number Web> photograph by AFLO

第94回箱根駅伝予選会での渡邊和也。東国大での4年間は順風満帆とはいかなかったが、充実した時間を過ごした

「ぎりぎりだったけど、箱根を走れたことは良かった」

 大学進学を決めた時も、逆境に立たされたことがきっかけだった。実業団選手としての進退がかかっていたレースで結果を残せず、将来に悩んだ時、日清食品グループのコーチだった保科光作(現・慶大コーチ)を介して、日清食品グループOBで東京国際大のコーチである松村拓希に話を聞く機会があったのだ。

 指導者になるためだけであれば、他の選択肢もあったかもしれない。ただ、渡邊は現役続行にこだわっており、大学進学を決意した。

 それまでは1500mから10000mまでのトラックをメイン種目としていたが、大学では20km超の箱根駅伝が大きな目標になった。

「大学に入るまでは、練習でも20km以上の距離は、片手に余るぐらいしか走ったことがありませんでした。それぐらい長い距離はやってきていなかったので、練習方法も年間スケジュールも今までとは全く違いましたね」

 大学1年目は、まずまず順調な滑り出しだった。故障を抱えながらの再出発だったが、箱根駅伝本戦には間に合わせ、7区を走り区間7位の成績を残した。

「やっぱり経験として1回は箱根駅伝を走っておきたかった。ぎりぎり間に合ったんですけど、箱根を走れたことは良かったです」

 短い準備期間でまずまずの結果を残したのは、さすがのポテンシャルとしか言いようがない。

思うように練習ができなかった2年時

 しかし、2年目は、思わぬ苦戦を強いられた。体育の実技で選択した器械体操の授業が思いの外きつく、陸上競技で味わうものとは違った筋肉痛に見舞われ、練習にも支障をきたすほどだったのだ。

「授業と練習の兼ね合いがうまくいかなかったというか、今となっては、授業の選び方を間違えたのかなと思っています。なかなか思うように練習ができなかったのが2年生でした」

 箱根予選会には出場したものの、チーム全体が力を付けてきていた時期でもあり、本戦の出走メンバーからは外れた。

 そして、大学生活も折り返しを迎える。

【次ページ】 「トラックを見るだけで気分が悪くなる時期もあり」

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