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「これ、かっこよくない?」20歳イチローがハワイの夜間練習で見せた“衝撃の振り子打法”
posted2021/01/11 11:00
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph by
JIJI PRESS
「イチロー」は今、二十歳である――。あの年、恩師との出会いがもたらした登録名変更の舞台裏を、関係者の証言で紐解く。〈全2回の1回目/#2へ続く〉
【初出:Sports Graphic Number 870号(2015年1月22日発売)「二十歳のイチロー誕生秘話」/肩書などはすべて当時】
20歳の記憶は、ブランデーとともにあった。
イチローが30歳になった直後、こんな話をしていたことがある。
「僕が20歳のころは、先輩によく飲みに連れていってもらいました。そういうときの行き先はクラブかスナックで、出てくるお酒はブランデーの薄い水割り。でも当時は、あれはとても僕が飲めるお酒ではないと思っていました」
だから30歳の誕生日、イチローはブランデーを飲んだ。30歳になった自分が、その味をどう感じるのかに興味があったからだ。
イチローが20歳のころ、先輩たちが「これはいい酒だ」と誇らしげに部屋へ持ち込んでいたヘネシーのXO。当時は美味しく感じなかったその酒を、30歳になった日の夜、イチローは水割りではなく、ロックで飲んでみた。美味しかった。メジャーで3年を戦い終えたオフのことだ。
20歳になったのはプロ2年目の、1993年10月22日。彼のことを「一朗」と呼ぶ人はいても、「イチロー」と表記する人は、まだ誰もいない。鈴木一朗が20歳になったとき、“イチロー”はまだ生まれていなかった。
鈴木は「いつでもチーズバーガー3個」
その日、“鈴木”はハワイにいた。
ちょうどこの年から始まった、ハワイでのウインター・リーグに参加していたのである。若手育成を目的に、日米韓の3カ国から派遣された選手が4チームに分かれて、約2カ月のリーグ戦を戦う。オリックスの鈴木が所属したのはハワイ島のヒロ・スターズ、背番号は5。同じチームには鈴木の他にオリックスの田口壮、ダイエーの内之倉隆志、日本ハムの南竜次ら、3球団から14人の日本人選手が振り分けられていた。
2カ月の相部屋暮らし。鈴木のルームメートは同い年の林孝哉(現在、日本ハムの一軍打撃コーチ)だった。林は、和歌山の箕島からドラフト7位でダイエーに入団した内野手で、鈴木とは面識があった。林が言う。
「高校時代に愛工大名電のグラウンドで練習試合をしてたんです。だからプロに入ってからも、二軍の試合で会えば『元気か』って話してました。ハワイでも初めは同じダイエーの選手で固まってましたけど、仲のいいものが一緒になればいいということになって、僕はイチローと同じ部屋になったんです」
つまり20歳の誕生日、鈴木は林とハワイにいたことになる。しかし、林にその記憶はない。
「おめでとうを言った記憶もないですね(苦笑)。試合は夕方からなので、毎日、車で買い出しに出て、昼はマックです。僕は“何とかセット”を頼んで、ハンバーガーとポテト、コーラって感じですけど、イチローは変わってますから(笑)、いつでもチーズバーガー3個。だから誕生日もそうだったのかなぁ」
林の言うように、当時から鈴木一朗は普通とは一味、違っていた。たとえば、こんなことがあった。