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創価大ひと筋37年…“グラウンドもない”弱小校の監督になり、小川泰弘、石川柊太ら球界のエースを生み出した男
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byJiji Press
posted2020/12/22 17:00
1984年から創価大野球部の監督を37年間務めてきた岸雅司監督
社会人野球での岸雅司内野手の活躍は、今でもあざやかに記憶に残る。
三塁を守って俊敏なフィールディングと、ライナー性の長打力。精悍なプレースタイルの内野手だった。
毎年、学生野球のバリバリが入社してくるチームで、三塁、二塁のレギュラーを10年。そこから、当時まだ「同好会」だった創価大野球部に、初めての専任監督として赴任してから、新たな奮闘が始まる。
「1からじゃなかったね。ゼロからこの野球部を作ってきたこと、それが僕の誇りですよ。寮も、バスも、グラウンドもなかった。リーグ戦は選手たちと一緒に満員電車に乗って通ってね。バットとか、みんなかかえてね。練習するグラウンドも探した。僕もまだ20代だったから、バッティングもフィールディングも全部、自分でやってみせてね。なにもかも、選手たちと一緒に、1つずつ、1つずつ。だから僕、この創価大学っていうチームがとってもいとおしい。」
大学OBでもない若い新任監督をなかなか信用しない部員たち。「説得」はこれしかない。
当時のエースピッチャーとの一騎討ちで、最初の1球を左中間フェンスはるか上空を越えていく大放物線で、うるさがたの部員たちを黙らせた。
寮の中にある夫婦の自宅
ここからは『学生野球と監督』でうかがったお話だ。
「人間だったら、大きな夢、希望、高い目標を追い求めていかないとね。本気でそれを求める人間はものすごい潜在能力を持ってるものね。そのエネルギーをどう発揮させてあげるか…それが、僕の仕事だと思ってる」
猛練習と対話。
創価大野球部を「全国」の常連にまでのしあげた要因は、この2つが大きいという。
「まず、僕の家を見てもらおうと思ったのね。僕ら、ここでご飯食べてるんだよ、ここで寝てるんだよってね」
岸監督は野球部の「光球寮」が出来て以来、城子(しろこ)夫人と共に、寮の中の一室に住居を構えている。寮の玄関から入ってすぐ右手のスペースが岸監督の「お宅」である。入り口のドアの横には、「岸雅史 城子」の表札がかかる。
「僕の家がいい家庭なら、選手たちもきっとよくなるし、チームもいい家族になる。僕、そんなふうに考えてね。ここに住むことにした。でも、よく考えてみたら、選手たちほとんど誰も来たことなかったのよ、僕の家。キャプテンとか、マネージャーとか、役員ぐらいかなぁ……一番近いのに、一番遠い場所になってたんだよね」