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由規が神宮と地元宮城で浴びた大声援「ケガをしなかったら13年間も野球を続けようと思わなかった」 

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田中大貴

田中大貴Daiki Tanaka

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photograph bySANKEI SHINBUN

posted2020/12/23 11:03

由規が神宮と地元宮城で浴びた大声援「ケガをしなかったら13年間も野球を続けようと思わなかった」<Number Web> photograph by SANKEI SHINBUN

2019年9月26日、最初で最後となった地元・宮城の一軍マウンド。9回1イニングを投げ、則本昂大(右)にウイニングボールを渡した

オールスター前に痛めた左脇腹

――由規選手が最初に違和感を抱いたのはいつだったのでしょうか。

 ヤクルト時代の4年目に左の脇腹を痛めたことですかね。それが確か5月か6月、ちょうど7月にオールスター戦を控えていたころ。地元で震災もあり、宮城開催だったので個人的にどうしても投げたい試合でした。

――無理に投げてしまったと?

 実際、試合でも投げられたのでそこまで気にしなかったんですが、そのあとシーズンに戻ってもしっくりこない感覚が続いて、脇腹にある違和感が拭えないまま投げていたら、今度は肩を痛めてしまったんです。肩を痛めたのは野球人生で初めてでした。

――立て続けに痛めてしまったんですね。

 確かその年の9月ごろですね。チームはクライマックスステージへ進出していたので、自分もなんとか早く治して貢献したいという焦りもありました。結局、そのままシーズンは終わってしまいましたが、11月には何とか投げられるまでに戻り、実際に春のキャンプも一軍に同行していました。でも、今度はそこで膝を痛めてしまった。それが取り返しのつかないケガにつながっていきました。

――投球中に痛めたのですか?

 いえ、投内連係の練習のときですね。ピッチャー前のバント処理でサードへ投げた際、スパイクが芝に引っかかって、そのままクルッと回ったら左膝が逆の方向にグイっと。すぐに「あっ、膝をやったな」という感覚がありました。

――それが結局、また肩に影響したと?

 当時は「膝ぐらい大丈夫」程度の考えでした。でも左膝を痛めたことで今度は前に体重が乗らなくなり、それを肩で止めるようになっていきました。本当はまずは膝を完治させ、その上でしっかりと肩のリハビリをしなければならなかった。

――ケガを甘く考えていた?

 今では本当にそう思います。結局、12年は一軍登板はゼロ。そんなことはプロに入って初めてでした。

山なりのボールしか投げられなかった

――脇腹、膝、肩はすべてリンクしていたんですね。

 すべてにおいて誤魔化しが利かないと、そこで初めて気づきました。膝は時間が経つにつれて回復してきたんですけど、肩はそれ以降もまったく良くなりませんでした。キャッチボールをしても、50メートルに届くかどうか。山なりのようなボールしか投げられなくなって。

――原因がわからなかった?

 そうですね。(手術で)開けてみないとわからない状態と言いますか……。そこで当時、侍ジャパンのトップドクターを務めていた方に診てもらう機会があり、痛みの原因を調べるブロックテストを行うことになったんです。先生が原因と考えていた関節の内側に麻酔を打って、その場ですぐにキャッチボールをすると、痛みもなく100メートルぐらいビューンと投げることができた。自分でも驚いたのですが、遠くに投げている感覚もボールを握ってる感覚もまったくないんです。

――感覚がない、はすごいですね。

 逆にここまで投げられたことで原因がハッキリしました。ブロックテストの時のように腕をふり切るためにはリハビリだけじゃ無理と判断して、13年4月に右肩のクリーニング手術を受けることになったんです。

【次ページ】 「回復が追いつかない」という辛さ

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